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いつか僕の腕の中で



 足元の砂を焼いていた太陽も、いつしか地平線の向こう側に沈んでいた。あんなに沢山居た人が一人減り、二人減り…気が付くと、二人だけになっていた。

 静かに寄せては返す波。空では円を描いている月も、海の中では揺らめいてその形を崩している。

 彼女は音もなく立ち上がると、波打ち際まで足を進めていた。

 …やがて彼女は足を止めた。細波が彼女の足を濡らした。

 月が淡く照らし出す彼女の影が、消えてしまいそうなくらい儚く見えて、彼は思わず立ち上がり、彼女の傍に行こうとした。

 しかし近づくにつれ、彼は彼の歩調が鈍るのを感じた。彼女が遠くを見つめながら、頬を涙で濡らしその小さな肩を震わせていたから。

 彼は歩みを止めた。彼女の雰囲気が独りにして欲しい、そう言っているような気がしたから。

「ごめんね…」

 彼女が振り向いて言った。

「関係ないのに、一緒に来て貰って…」

 彼は戸惑った。こんな時に人にかける言葉を知らない。そのまま言葉もかけず、彼は彼女に歩み寄ると、隣に並びかけた。空と海とが交わっている地平線のその先を見つめながら、彼は口を開いた。

 極自然に言葉が紡がれ行く。まるで押し寄せる波が言の葉を彼に運んできたかのように…。

「…忘れようよ」

 瞬間、彼女の表情が怯えた。

「俺、君の彼のこと全然知らないし、君が彼をどんなに好きだったかなんて解らない。…酷い言い方だけど、好きだった人の思い出を何時までも抱いているのは良くないと思う。だから…」

 と、言葉切る彼。彼は彼女を見た。その視線を感じて彼を見る彼女。見詰め合って、彼は言葉を紡いだ。

「だから彼との思い出捨てなよ、此処に…」

 また、一際大きな波が押し寄せてくる。無数の砂がその何に浚(さら)われて行く。

「…無理だよ」

 消えてしまいそうな声で彼女は呟く。

「嫌なことばかりじゃなかったんだよ? 幸せだった時も沢山…っ!」

 …苦しかった胸の内を吐き捨てる彼女。その苦しみに耐えかねた彼女の表情はとても心に痛かった。

 出来ることなら、彼女の傷を癒してあげたい。彼はそう、胸の中で呟いて、どうにも出来ないもどかしさを噛み締めながら、今はただ自分の手を強く握り締めることしか出来なかった。

 それから幾許の時を重ねただろう。

 潮風の冷たさは次第に深まっていった。身を切るような冷たさ。そう形容されるべきだ、と彼は思った。

「…別れたくなかったよ…」

 長い沈黙を、彼女の痛切な言葉が切り裂いた。

 …きっと潮風の冷たさに、彼の別れの言葉を思い出したのだろうと、瞬間彼は思った。彼女の言葉が余りに体温を帯びていたから。

「俺さ…」

 不意に声を上げる。

「君の彼の名前も知らないけど、絶対許せない。君をこんなに悲しませてる…」

 彼の目つきの険しさを見て、彼女は小さく笑った。

「…私が勝手に悲しんでるだけだよ…」

「そうじゃない、違うよ!」

 彼は声高に言った。

「…俺だったら、君の悲しみを取り除く自信があるのに、君は…」

 彼は俯いた。

「…ごめん」

 顔を上げて、彼女に謝った。波が一つ引いて行った。

「知ってると思うけど、俺は…」

 彼女は息を呑んだ。この後彼が紡ぐ言葉が何なのかを知っているから。

「君が好きなんだ。だけど、君が他の誰かを好きなのは知っていたし、君と付き合う程の価値が自分にないのも解ってた。だから決めたんだ。君が困っている時、力になれればそれで良いって」

 今度は彼女が俯いている。

「俺ってヤな奴だね。結局は自分のことしか考えてないのかも」

「そんなこと…」

 彼が自らを嘲笑していると彼女がそれを遮った。

「あなたは凄く良い人だし優しいわ。けど私、今は未だ…」

「解ってる」

 と、今度は彼が彼女の言葉を遮った。

「今すぐに付き合って欲しいなんてことは言わないよ。ただ知っていて欲しかった。俺の言葉で気持ちを伝えたかったんだ。それだけ。俺は、いつまでも君を待ってるよ」

「…うん」

 そう応えた彼女が微笑んでいたので彼も目を細めて笑った。

 

 二人の場所が見つかるまではまだ時間がかかるだろう。しかし、必ず見つけられると信じて。彼は心の中で呟いた。「いつかこの腕の中に、彼女を抱きしめたい」と。


 

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2010年02月03日:デザイン改修