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秋桜〜more&more〜



 南向きの窓を、秋雨が強く叩いている。その音はとても悲しげに聞こえる。

 彼は伏せていた顔を上げた。窓際で悲しげに咲いている秋桜(こすもす)が彼の視線を奪った。

 …秋桜は萎び始めていた。

 その弱弱しい姿はまるで今の自分のようだ、と彼は思った。

 大切なものを失ってしまった。

 彼は机上に広げてある手紙に視線を移した。それを手に取ろうとして、やめた。

 何度繰り返し見ても手紙の内容が変わるわけはない。それは解っているのに、変わっていれば、と祈っている。

 今頃彼女は…、と彼は思いを廻らせる。

 彼女は今、何処でどうしているのだろう。

 そう思案して、彼は思い出したように窓に目を向けた。相も変わらず雨は降り注いでいる。

 …傘は持っていっただろうか。何処か行く充てはあるのだろうか。何処にも行けなくて、この冷たく鋭い雨に打たれながら佇んではいないだろうか。

 彼は手紙を仕舞いながら彼女と初めて出逢った夜のことを回想していた。

 その時も丁度、窓の外のような土砂降りの雨だった。


* * *


 突然の夕立が帰路に着く多くの人々の足を妨げていた。どの店の軒下も人が佇んでいたし、駅構内も同じように人で溢れていた。

 そんな状況の中に居るのはまた、彼も同じだった。

 構内にあるコンビニに立ち寄って傘を捜してみたが、誰もが考えることは同じのようで既に在庫はないと断られた。タクシーを拾おうにも、やはり皆が同じ事をしていて自分の番が来るのはいつになるか解らない。

 結局彼は空費する時間の価値を目算し、多少の障害も加味した上で、走って帰ることを選択した。彼は思い切り外にその身を投じた。


 …土砂降りの雨は容赦なく彼の身体を叩きつけた。まるで行く手を遮るかのように。

 やがて横断歩道に差し掛かった時、信号機が意地悪く顔を赤らめた。彼は仕方なく歩みを止めた。行き交う車の波をぼんやりと眺めていると、それが一瞬だけ途切れた。瞬間彼は、幻のような、おぼろげなものを見た。

 真っ直ぐと道路を挟んだ向こう側の公園、その入り口のベンチに真っ白なものが存在していた。彼はただの一瞬だけ捕らえたその姿が何故か脳裏に焼きつくのを感じた。

 そして車の波はゆっくりと引いていった。彼は無意識の内にその白く儚い存在に歩み寄っていた。

「あの…」

 それは顔を上げた。端整な顔をした女性だった。

「どうしたんですか? こんな土砂降りの雨なのに、傘もささないで…」

 彼女は顔を伏せて答える。

「私に、構わないで下さい…」

 ただ地面を打ち付ける雨音がその瞬間だけ一際大きなものになった。彼にはそれ以上、其処に留まる理由もなくて心だけ囚われたまま、自分が辿るべき家路に着いた。


 部屋に戻り、シャワーを浴び終えた彼はぼんやりとテレビに映し出される映像を眺めていた。其処にはただ無意味とも言える空虚な時間が流れていた。

 やがて時計が午前零時を告げる曲を奏で出した。その音が彼にあの瞬間を想起させた。

『私に、構わないで下さい…』

 雨の雫よりも冷たく、心にまで侵食する彼女の言葉。彼はこの言葉の所為(せい)であの場所に心を置き忘れてきてしまった。

 何が彼女をあれほどまで冷たくするのだろう。何が彼女をあの場所に止めるのだろう。

 疑問は増えても解決はしない。

 彼は心が穏やかとは言い難くなっていくのを感じた。


 そして気が付くと、また公園の近くに立っていた。傘を右手で差して、左手にはもう一本、傘を持って。

 公園の入り口のベンチにはやはりまだ、あの女性が居た。彼は少しだけ近づくことを躊躇ったが、左手に感じる傘を握り直すと確かめるように始めの一歩を踏み出した。

 次第にその姿が克明になっていく。多分あの様子だとあれから一歩も動いていないのだろう。彼の記憶の中に残る彼女の後姿と、今見ている彼女の後姿が寸分も違わない。

 彼足取りが早まるのを感じた。

 そうして、彼は漸く彼女の傍まで来た。もうひとつの傘を広げて、それを彼女に差し掛ける。すると彼女は止まっていた時間が動き出したかのように、振り返って顔上げた。とびっきりの笑顔を浮かべていた。

「やっと来てくれた…!」

 そう言った次の瞬間、彼の顔をそれと認めると、明らかに笑顔が引いてゆく。そしてまた俯いてしまった。

 彼が戸惑っていると彼女がまた呟くように言い放った。

「…どうして…? どうしてあなたなの…!」

 彼女の声に嗚咽が混じり始める。彼は更に混乱してきたが、ただ自分が思ったことだけを口にした。

「えっと…。もしあなたが未だ此処に居たとしたら、風邪を引いてしまうと思ったから…」

 それを聞いた彼女は今までにも増して泣き出した。彼はどうして良いか解らずにただ傘を彼女に差しかけたまま佇んでいた。雨の音と、彼女の泣き声を聴きながら…。


 それから少しして、彼女の嗚咽が少しずつ引いていった。彼は気後れしながらも、彼女に何があったのか聞いてみることにした。

 …詮索は良くない。それは解っている。しかし彼女の弱々しい姿を見ていると、出来ることがあるのならばしてあげたいと強く感じた。

「あの…」

 しゃくりあげる彼女。返事はないけれど必ず聞いていてくれている。彼にはそう思えて仕方なかった。

「良かったら何があったのか話して貰えませんか? 赤の他人ですけど、できることがあったらお手伝いしますよ」

 彼女はまだ小さく泣いていた。

「どうして…私に構うんですか…?」

 彼女は涙声ではあるが、端的に訊いてきた。彼はその問い掛けにこう答えた。

「何故だか、無視することが出来なかったんです」

 彼女は静を守っている。彼は続ける。

「だってそうでしょう? 無抵抗に雨に濡れてる人なんて、滅多にいない」

 彼はそう言いながら彼女に微笑みかけた。暫しの沈黙があって、漸く彼女は口元に微かな笑みを浮かべた。

「…そうですよね」

 彼女の小さな呟き。

「解ってたんです。雨が降り始めた頃から、もう来ないだろうなってことは…。けど、もしかしたらって思ったら動けなかったんです」

 一通り話し終えると、また顔を伏せた。

「誰かを待っていたんですね。大切な話、だったんですか?」

 彼の声はとても優しかった。彼女は肩を震わせた。

「私にとってはそうでした。じゃなかったらこんなことはしないでしょう? …けどあの人にとってみればただ迷惑な話に過ぎなかったと思います」

 …思い秘めていた胸の内を言葉にして表すことで、否が応にも理解出来てしまったのだろう。或いは自分の発した言葉にある種の冷淡さを感じて心が疼いたのか。

 彼はあくまで推測だが、その両方だと考えていた。

「泣いてばかりでは来る幸せも来ませんよ」

 彼は彼女の表情を伺った。

「…笑ってください。あなたに涙は似合わない。僕にはそう思えて仕方ないんです」

「どうして…」

 不意に彼女が声を発した。

「どうしてあなたは、知らない人にそんな優しい言葉を掛けれるんですか?」

 突然の彼女の問い。彼は少し躊躇(ちゅうちょ)したが、自分の信念そのものを言葉にして告げた。

「…僕は常に心得ている信念があるんです。『人と人との出逢いには必ず、何らかの意味がある』って。…だからあなたとの出逢いも偶然じない。そう思うから、戻ってきたんです」

 彼女は顔を上げた。雨に酷く濡れている所為で頬を伝う雫が、雨のそれなのか、それとも涙であるのかを解らなくしていた。

 僅かな間見つめあった後、彼女は消え入ってしまいそうな細い声で告げた。

「ありがとう」


* * *


 それから二人が惹かれ合うのにそう時間は掛からなかった。彼は二人でいた日々を想起した。彼女と過ごした日々は他の何にも変え難い、全てが大切な瞬間―――。 

 彼は重い腰をあげた。気持ちが変わった。

 一目散に玄関に駆け寄ると傘を二本手に取り、矢よりも早く外に出た。何処に行ったかは解らない。解らないけれど、このまま此処に留まっていたら、二人の距離は二度と縮まらないと思った。

 このままで終わらせたくない。いや、終わらせてはいけない。

 彼は自分の信念を信じた。人と人との廻り合わせには必ず意味がある。彼女との廻り合わせにある意味を解せないままでは終わらせたくない…。

 彼は二人出逢った頃を再度思い出しながらまずはじめにあの場所に向かってみた。

 その間に彼は、彼女との出会いの意味を探った。

 雨は強く彼の身体を打ち付ける。やがてその小さな痛みが答えに変わるだろう。

 彼はそう信じて走り続ける。彼女と、彼女に出逢った意味とを見つけるために。


 

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2010年02月03日:デザイン改修