風の囁き
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 風はどの時代でも、変わることのないものなのだ。言い換えれば不変のものとでもいおうか。いつも、いつまでもそのままで…。

 風は覚えている。その時代の風景も、人々も、その心も…。それを、風化して記憶を呼び起こしてくれるのは、ただ一つ。

 風の囁き。それは万人が聞けるものではない。何かに躓(つまず)いたり、壁にぶつかったり…。何か大切なものを見失ったり、無くしたり…。挫けそうなときになって初めて聞こえるという。

 そんな時、彼は失っていた。最愛の人と思っていた彼女が自分を置いて―――別れの言葉さえなしに―――遠い異国の地へと旅立っていった。

 人を信じることを恐れて、愛する意味を忘れ、失っていた。自分に絶望し、相手に失望した時、彼は風の囁きを聞いた。

 

"いくら傷ついてもね、一番したまでいったらそれ以下はないんだよ"

 

 確かに聞こえた。風化していた記憶の粉末が積り、やがてひとかけらの記憶になる。相当昔のことだろう。けれど、ヴィジュアルは鮮明だった。脳裏に思い浮かんだあの頃の風景は、少しの霞もなく、大きな太陽に照らされていた。

 その太陽の下で、彼の知らない少女が笑っていた。声の主だろうか…? 少なくとも彼には、その少女が誰なのかは思い出せなかった。しかし、ついさっき聞いた風の囁きの、声の主は彼女のものなのだろう。その声は心地良くかれの脳に浸透し、そして、震動した。

 更に彼の心までも、その震動は響いた。そしてその震動は彼の悲しみの傷痕に触れ、そこを広げ、心の苦痛を思い起こさせ、そしてまた、瞳からは一粒の雫が零れ落ちた。

 切なさの雫が頬を伝い落ち、やがて地面に溶け込んで行った時、彼の心は変わった。

 いつまでも、囚われていてはいけない。

 そんな当たり前のことなのに、どうしてだろう。心に響く。心に響いて、どうしようもない気持ちになった。

 そしてまた、風の囁き聞く。

 

"後ろばかり見ているから、前に進めないんだよ"

 

 確かにそうだった。前を見なければ。けれど、見るだけの勇気がない。また、傷ついてしまうかもしれないから。…それを恐れていてはいけないことも分かっている。けれど、実行できるほどの力を持っていないから。

 だから、自分の出来そうなことを探してみる。するとまた、風の囁きが聞こえる。

 

"探すべき物って、近くにあり過ぎて気付けないものなの"

 

 近くにあり過ぎる? それが何だろうと考えた時、気がついた。風だ。自分が今、身に纏っているのは服なんて、そんな陳腐なものじゃない。風だ。そして、更に近い物。…囁き。そう、囁きだ。

 

"けど、気付くことが出来た時、きっと生きる活力になるはずよ"

 

 気がついて初めて、彼は理解したような気がした。探すべき物。それは、何の手がかりもないけれど、自分に生きる活力を分けてくれた、囁きの、声の主。

 目を瞑(つむ)ってあの頃を求めると、セピア色に染まった町並みが広がっていく。…何処かで。何処かで出逢ったのは覚えている。けれど、其処が何処なのかが思い出せない。それがもどかしかった。

 

"どうすればいいのだろう。僕は"

 

 彼は、自分の心の中で正直に考えた。すると、ある一つの思いが脳裏をかすめた。

 囁きが見せたのは、自分の幼少の頃の思い出だった。となると、当然その彼女との出逢いもその頃だろう。当時は旅行などはしなかった。あの町から出たことはなかったのだ。

 つまり、彼女との出逢いはある町である。そして、自分があの頃外出していたとするならば、場所は決まっていた。

 彼は居てもたっても居られずに、財布の中身を確認すると、外に飛び出した。

 

"どうしても、あの子に逢いたい―――"

 

* * *

 

 彼が彼の故郷に降り立つと、まず空を舞う葉が彼を迎えてくれた。

 秋の気配が町全体を包み込み、秋らしい香りが辺りに立ち込めている。それを胸一杯に吸い込み、秋を満喫する。そして、回想する。この町で育んだ思い出を…。そして忘れかけていたあの心の痛みがまた、広がっていく。この町の思い出はいいものばかりだった。けれど、彼女と別れたことによって、その思い出は皆、辛いものに変わってしまった。

 早くこの思い出を、思い出しても幸せだったと思えるようになりたい。それが彼の、今の思いだった。

 ともあれ、彼にとってこの町は非常に心地の良い場所だった。何より、自然に包まれている。木々が風に歌い、小鳥の囀りもまた、耳に気持ち良い旋律を届けてくれる。

 彼は自然と、子供の頃に遊んでいた森に向かっていた。ただ、なんとなくだった。いや、むしろそれは、自分の意志ではなく、風がそうさせたのかもしれない。

 

 森につくと、彼は愕然とした。あんなに木で生い茂っていた森は、いつの間にか小さくなっていた。マンションが出来ていた。

「…ここも変わったな」

 口を突いて出た言葉は、ただそれだけだった。もう、元には戻らない。そんな不変の真理が彼の脳裏を過ぎったからかもしれない。

 一歩森に入る。と、あの頃の匂いはまだ、充分に残っていた。それが嬉しかった。少しだけ形が変わっていたとしても、あの頃の暖かさがまだ残っていた。それが何より嬉しかったのだ。

 その森の中で、空を見上げた。紅葉し終えて、空を彩るという仕事を終えた椛(もみじ)の葉は、ゆっくりと大地に舞い降りた。

 その時だった。椛の葉が一層多く舞い降りたかと思うと、彼の周りを囲むように降り注いだ。そして、彼は目を閉じた。

 

――――風が吹き抜ける――――

 

* * *

 

 ―――風が吹き抜ける。

『楓の木って、風を纏ってるんだって』

 幼い頃、一度だけ不思議な出逢いをしていた。

『…え?』

『ほら、漢字で「かえで」って書くと、「風の木」って書くでしょ? 風は楓の木を守ってるの』

 名も知らぬ女の子が自分に話し掛けてくる。

『ホントだ…』

 幼き日の彼はそう呟いた。

『ね?』

 そして、その少女は笑顔を見せた―――。

 

* * *

 

―――風が吹き抜ける―――

 

 はっ、と、彼が気付くと其処は、紛れもない彼の記憶の中だった。

 風は、今も、この時も変わっていない。ただ、何もかもが懐かしい。この木の表面も、風景も、太陽も…。

 変わらずに、あの日のまま。懐かしく思う気持ちは、あの頃の自分を羨望(せんぼう)しているのかもしれない。

『一緒に歩かない?』

 と、見下ろすと、自分のすぐ傍に少女が居た。そして、その声は囁きの声と同じだった。…胸の鼓動が高鳴る。

『…どうして?』

 と、背後から声がする。彼は慌てて振り向いた。と、そこに居るのは幼き日の自分。

『二人で歩いたらきっと、楽しいと思うから』

 彼は二人の前から立ち退くと、自分の姿を見下ろした。…透けている。

 確かに、彼の身体は透けていた。手をかざしても、太陽の日差しは木々に遮られてはいるものの際限なく差し込んでくる。

『…良いよ』

 幼き頃の彼は、少し遠慮がちに頷いた。

『良かった!』

 少女は花のような愛らしい笑顔を咲かせた。

 

 二人は並んで歩いていっている。その後姿を、彼は黙って見送った。

 そして、思い出す。あの後に、あの言葉を聞くことを。

 

"いくら傷ついてもね、一番したまでいったらそれ以下はないんだよ"

 

 もうすぐこの町を離れなければならない。その話を彼女にしたのだ。そして、自分は深く傷ついている。この町から離れたくない、と、彼は彼女に伝えた。

 彼女は続けてこう言った。

『誰だって、最初は怖いの。…当然だよね、今まで経験したことのないことが始まるんだもの』

『…うん』

『けどね、それを"不幸だ"と感じていたらダメなの』

 彼女は木々のざわめきに耳を傾けながら、目を閉じていた。彼はその美しい姿に暫し魅了されていた。

『知らなかったことを"知る"っていうのは、幸せなことなの』

 彼の目を見ていう彼女。

『鳥の囀りしか知らない。木々のざわめきしか知らない。風の囁きを聴いたことがない…。それはとっても悲しいことだわ』

 彼は首を傾げる。

『"風の囁き"って?』

 彼がそう訊くと、彼女は一瞬悲しそうな顔をした。しかし、瞬時に笑顔を作るとこう答えた。

『私みたいに、ツライ思いをすればきっと、聞けるわ…。けどね、ただ不幸になったわけじゃない。出逢ったの』

 彼女は哀しみもつらさも、何もかもを忘れたような笑顔で言った。彼は不思議そうに聞く。

『…誰に?』

 彼女はただ、微笑んで言った。

『大切な人に――――』

 

* * *

 

 彼がハッ、っときがつくと見知らぬ公園のベンチに座っていた。足元には無数の枯れ葉が落ちていて、頭や肩にも枯れ葉が積っていた。彼は立ち上がると身を震わせてそれらの葉を振り落とした。

 落とし終えると彼はまた、ベンチに腰を沈めた。

 そして、彼女の最後の言葉を思い浮かべる。

 

"ただ不幸になったわけじゃない。出逢ったの。大切な人に――――"

 

 大切な人に、出逢った…。囁きを聞いた後に?

 彼は顔をあげた。一人の女性が立っていた。

「一緒に歩かない?」

 彼は胸の高鳴りを感じつつ応えた。

「…どうして?」

「二人で歩いたらきっと、楽しいと思うから」

 彼は一瞬後、微笑んだ。

「…良いよ」

 そして彼女もまた、笑顔で言った。

「良かった!」

 

―――風が吹き抜ける―――

 

 そして彼は一人になった。ただ、一瞬の間だけ言葉を交わし、彼の望みは叶えられた。

 ただ、それだけだった。

 

 風は全てを運んでくれない。ただ、人々の想いを知っている。それだけだった。

 残酷かもしれない。けれど、彼は。

「…ありがとう、思い出したよ、全部を」

 満足だった。そう、思い出したのだ。何故忘れていたのだろう。

 彼女は、囁きの声の彼女は、名前を香坂 苓(こうざか れい)といった。本当は、思い出したくなかったのかもしれない。あまりに残酷な過去だから。

 彼女は亡くなっていた。

 自分よりも幼い子供が道路に飛び出して、それを助けようとし、犠牲になった。

 あんなに悲しかった過去だから、きっと、心の最も深い傷を、無意識に守っていたのかもしれない。

 けれど、忘れたままだったら。それを考えるとツライ。

 風は人の心を解している。

 もし仮に、彼の気持ちを解して、こういう出逢いをさせたなら。

 

 風は今日も何処かで人の心を解し、囁き、導いているのだろう。

 風は変わらない。何時までも……。


 

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