ValentineDay・Story



 2月12日、土曜日。

 明後日はバレンタインデーだ。

 バレンタインデーは例外なく、誰もが胸をときめかせている。

 彼女、伊吹沙耶(いぶき さや)もこのビッグイベントにかける、一人の女の子だった。

「さぁ、後は固めるだけだっ」

 溶かしたチョコレートには、まろやかさを出すために生クリームも入れた。形はありきたりだし、恥ずかしいけれどハート型にした。

 沙耶は長い髪を後ろで束ねてポニーテイルにしていたが、それを下ろした。少しウェーブがかった髪を指でほぐす。大人っぽい髪型だが、目がくりくりしていて幼く見える。そのためか、いつも実際年齢より低めに見られてしまう。背の低さもその一因か。

「ふ〜。由美に電話しよっと」

 沙耶は誰に言うでもなく呟くと、そのまま自室に戻ると部屋にある子機を手に取った。そして、手馴れたようにその番号を押していく。

 暫くして呼び出し音が鳴り、また少しすると相手が出る。

「はい、相馬(そうま)ですぅ」

 特徴的な高い声で、すぐに由美本人だとわかる。男の子からだと勘違いしているのだろう、地の声より二割り増し可愛くしている。

「あ、由美?」

 瑣末なことだ、と沙耶は普段通り接してみる。

「なんだ、沙耶か」

 態度がやはり豹変する。

「あれ、ヒドイなぁ。私がかけちゃいけなかった?」

「そんなことないよ、で、どうしたの?」

 由美の対応にいささか不満を抱きつつ、話の用件を切り出した。

「うん、出来たよ、チョコレートっ」

「え、早いね。で、どうだった? 味の方は」

 漸く話に興味を抱いた様子の由美。沙耶は調子付いて現状の説明に入る。

「また固めてないんだけどね、溶けたままのチョコは美味しかったよ」

「ふ〜ん、じゃあ、明日にでも交換して味見しようよ」

「あ、いいね。何処で逢おうか?」

 受話器の向こうで、由美が唸っているのが分かる。

「う〜ん…。いつもの喫茶店いこーよ、あのマスターが面白いところ」

「あ、そうだね。ついでにマスターのも作ってあげよっか?」

「いいね! じゃあ、お義理一個追加だね!」

 二人は笑う。

「そだね。私はどうしよっかな? クラスの男(こ)の分、一つずつ減らそっかな?」

「そうしなよ。でも、かわいそー、男の子」

 あはは、と笑いながらそう言う由美。

「仕方ないよ。魅力ないんだからね」

 さらりと言い放つ沙耶。

「そりゃそうだけどさ。それより沙耶、誰が本命なの?」

「…え?」

 突然の質問に沙耶は戸惑う。

「そういえば、沙耶の好きな人、聞いたことなかったなぁ〜?」

 意地悪く、とぼけた調子で問う由美。

「え、えっとぉ…」

 手近にあるクッション――、ひよこらしき風貌の、くちばしがやけに大きくて左右の目の位置が微妙にズレている黄色いそれを抱きしめて、モジモジとする。

「だ・れ・か・な・ぁ〜? ほら、白状しちゃえっ」

 畳み掛ける由美。一気に自白させようと意気込んでいるのが声で判る。

「あ、あの…。明日! 明日ね、長いからっ」

 ひよこのクッションの顔が潰れる程抱きしめて慌てて言い逃れを図る沙耶。

「あ、逃げた。…分かったよ、長電話になってるし、今日はこのくらいで勘弁してあげる。けど、明日は…」

 とても厭な所で言葉を区切る由美。

「わ、分かってるよっ。明日は…、絶対話すから…」

「よろしい」

 そういって笑うから、由美はやはり憎めないな、と沙耶は思う。

「じゃあ、明日朝10時くらいでいいかな?」

「あ、うん。大丈夫だと思う」

 部屋の壁についている時計を意味なく眺めて、明日の10時を差す時計の針を想像する。

「そっか? じゃあついでだし、買い物もしよーよ、大丈夫でしょ、時間」

「うん、大丈夫だよ」

「そいじゃ、また明日ってことで」

 由美には見えないと判っていながらも、ついつい反射的に頷いて応える沙耶。

「うん、また明日」

「バイバーイ」

「バーイ」

 二人は同時に受話器を置く。

 話し終えてみると、部屋は静かに時を刻む時計の針の足音だけが響いている。静寂の中においてそれはやけに大きく聞こえて、どうしていつもはこんなに大きな音が気にならないのだろう、と考えずにはいられない。

 暫くその不思議について考えると、それを遮断するようにため息を一つついて、ベッドに仰向けに寝転ぶ。

「…そういえば、話してなかったんだなぁ、誰にも…」

 自然と見上げることになった白い天井。其処に灯る照明が白く、眩しくて、その細い指先で光を遮りながら、やがて目を閉じる。

 そして胸に描き出されるのは忘れもしない、あの初春の、通り雨に降られて困っていたその時、出逢った人。
 
「………名前、知らないっていったら、驚くかな…」

 
* * *

 
 13日の朝は、身も凍る程の寒さで明けた。現在午前9時30分。沙耶は丁度約束の30分前にこの待ち合わせの店、「スカーレット」の前に来ていた。

(どうせ由美は来てないだろーな…)

 由美は「女性は待ち合わせの際、15分遅れるのが鉄則!」などい言って、いつも待ち合わせには15分ぴったり遅れてくる。それ程正確ならば、ちゃんとピッタリの待ち合わせ時間に来い、というのだが、当人は聞き入れもせずに現在までに至っている。

 彼女のそういう点を把握していながらも、沙耶が待ち合わせの時間より早く来てしまうのは、性分というか、沙耶が人生において損していると評価出来る点であろう。

 沙耶はそんな愚かしい自分に向けたため息をつきながら、店のドアを押した。

「いらっしゃい。…おぉ、沙耶ちゃんか」

「おはようございます」

 沙耶は丁寧に頭を下げた。

 気さくな笑顔を浮かべる禿頭…、ではなくこの紳士は「スカーレット」の店長、林作造(はやしさくぞう)と言った。少し肉付きが良い体。某ファーストフード店の置物を彷彿とさせる笑顔の造形。必要以上に真っ白い歯。立派な口髭。二重アゴ…。などと、特徴を言えば言う程、常人離れした風体の持ち主だ。

「今日はどうしたんだい?」

「由美と会う約束で。…あ、店長さんにプレゼント…」

 そういって、沙耶はバッグの中に手を差し入れる。程なくしてそれを掴み、作造の眼前に差し出して告げる。

「はい、チョコレ…」

「おっと待った!」

 と、作造は沙耶の言葉を遮って申し立てる。

「その先ばかりは言っちゃいけねぇ…。沙耶ちゃんが俺に注ぐ目に、ある種の感情が芽生えていた点については疑う余地もなかった、それは認めざるを得ない程完全な事実だ。けど沙耶ちゃん、良く良く考えてもくれねぇか、俺と君とは将に父と子程に年の差も開いている…。君くらいの女の子が年上の男に憧れてしまうのも判らなくはない…」

 作造は禿げた頭に少し汗を浮かべ、欧米人宜しく、感情や言葉を身振り手振りに乗せて饒舌に語る。ある意味で、その空間は見事禿の舞台に成り代わった。

「だがしかし! 例え俺がエネルギッシュで魅力的だったとしても、それはね、沙耶ちゃん、敢えてこの言葉を遣うまいとは思っていたけれど此処でこの単語を遣わなければ君の今後を左右しそうだから敢えて遣ってしまうけれどどうか、嗚呼どうか傷つかないでおくれ。君が俺に抱いているその恋心はついには叶うことはないんだよ!」

 と、アブラギッシュに滾(たぎ)る禿。沙耶は禿が物語っている間に禿が雄弁に振舞うすぐ近くのカウンター席に腰を落ち着けて、いつも通り、代わり映えのしない手作りのメニューを眺めながら、漸く禿の言葉が途切れたことを認識するとずっと前から用意していたとびっきりの作り笑顔を浮かべて軽やかに、涼しげに告げる。
 
「お義理ですよ」

 沙耶の柔らかくも冷たい声と言葉の二律背反に、禿は流れる川の如き身のこなしを硬直させた。

 禿は顔に驚愕の表情を、劇画のような凄惨さを携えて浮かべている。

「…義理だって?」

「義理ですね」

 沙耶は笑い出してしまいそうなのを必死で堪え、あえて事務的な口調で申し上げる。

「ジーザス! 勘違いも甚だしい! 沙耶ちゃんいけない俺を叱ってくれ!」

 一人お祭り騒ぎの禿を見て、沙耶はとうとう笑ってしまった。

 いつもそうだ。この店長はこうやって必ず笑わせてくれる。そうして客が笑うと普通の人間に戻る。彼なりの処世術なのだろう。年甲斐のない、子供っぽい店長のこういう面が、沙耶たちがこの店を良く訪れる理由の一つでもある。

「そうそう、沙耶ちゃん知らなかったよね? 新入りくん」

 ひとしきり笑った沙耶が落ち着くのを待って、店長は切り出した。

「新入りくん?」

 沙耶が薄っすら瞳に溜めた涙を拭いつつ繰り返すと、店長は自慢げに頷く。

「そう、とびっきりの色男だぜ。オーイっ! 新入りっ」

 沙耶のリアクションは丸きり無視して、店長は店の奥に大声で呼び掛けた。

「はーい?」

 と、打っては響く鐘のように、即座に、しかし少しとぼけた声が返ってくる。

 沙耶は、その声に覚えがあった。

(あれ、この声…)

 瞬間、胸の鼓動が加速する感覚を覚えた。自然に、極自然に店の奥に視線を投げかける。心臓の脈動が嘘のように激しさを増して、未だ収束を見ない。遠くから次第に近づいてくる足音。それから間もなくして姿を現した彼に、沙耶は驚愕して声すら忘れた。

「…新入りの原 雅俊(はら まさとし)君だ」

 店長は雅俊と呼んだ青年の肩に腕を回すと、乱暴に引き寄せて誇らしげに沙耶に紹介する。

「どーも?」

 訳が分からないと言った様子で、雅俊は頭を下げた。それもそうだろう、いきなり呼ばれていきなり紹介されれば、誰だって戸惑う。凍りついて雅俊の顔を見入っていた沙耶は、慌ててそれに倣い、頭を下げる。

(この、人だ…)

 頭を下げたまま、沙耶は一年前の、あの日のことを思い浮かべた―――。
 
 
* * * 
 
 
 一年前。

 桜の花びらが舞い踊る頃。

 突然降られた雨に困って、近くの文房具屋の軒下で雨を凌いでいると、一人の青年がその店先を通りかかった。

『…傘、ないの?』

 見知らぬその男は躊躇いがちに歩み寄って沙耶にそう問いかけてきた。沙耶は警戒しながらも、一応頷いた。ヘンな人だったらそのままお店に入って助けて貰えば良い。

『じゃあ、これ、使いなよ。俺の家、すぐ其処だから』

 そういって、ハイ、と沙耶に持っていた傘を渡す。沙耶一応は受け取って、でもどうするべきかと考えあぐねていると、男は笑顔でこう言った。

『じゃあね、その傘、君にあげるよ』

 彼はそう言うと沙耶の返事も待たず走り出した。唐突に遠ざかっていく背中を追いかけられずにただ見送っていると、次第にその姿は雨に吸い込まれていったかのような錯覚を沙耶に植え付けた。

 幻想的なその光景を網膜は勝手に、沙耶の意思など構いもせず、その光景を強く焼き付けた。まるでカメラにでもなってしまったかのような鈍い感覚。気がつけば心はその雨に消えた後ろ姿に惹き付けられて、遠ざかっていく事実が急に真実味を帯び始めた頃、沙耶は既に、予めそうなるように仕組まれていたのではないか、と疑ってしまうくらいに、どうしようもなく、名前も知らないその男に、本当に一瞬にして、恋に落ちていた。
 
 
* * *
 
 
 それから一年という月日が過ぎて。思いもよらない場所で。再会した。

「えーと、なんか何処かで会ったような…?」

 雅俊と呼ばれた男―――、想い出の人は沙耶を見てそう呟いた。

 優しそうな細い目を一層細くして。頭を掻きながらう〜ん、と唸っている。

(なっ、何か言わなきゃ…っ)

 頭でそう思っていても、口に出来る言葉はない。

「何処かで、会いませんでした?」

 堪りかねたように、雅俊が沙耶に訊いた。沙耶は―――。

「やっほー、待ったぁ?」

 その時、バン、と店の扉が開いたかと思うと由美が勢い良く入ってきたのだ。

「店長、ハイ、義理チョコ」

 由美が最初に義理をつけて渡すので、禿は今度はボケようがなく素で受け取った。

「あ、あぁ。ありがとう」

「あ! 誰? この男前♪」

 沙耶が固まっていると、雅俊は名前を名乗った。

「へぇ、雅俊くんだね! あたし、相馬由美! よろしくねっ」

 さっ、と手を出して強引に雅俊の手を握る。

「は、はぁ…」

 雅俊は困惑気味に、曖昧な笑顔を浮かべている。

「さっ、沙耶? 味見とお話ぃ〜」

 肩まで伸ばした髪を揺らして、店の一角にあるテーブルにさっさと腰かける由美。未だカウンター席で固まっている沙耶の名前を呼ぶ。

「ねぇ、さぁ〜やぁ〜?」

 沙耶は雅俊に視線をとめたままだったが、やがて一つ小さな呼吸を入れると、笑顔を作って言った。

「あの、後でお話しませんか」

 沙耶の真っ直ぐな申し出に、雅俊は気後れしながらも頷く。

「え? う、うん…」

 沙耶は雅俊の応答を見届けると、もう一つ笑顔を向けて、カウンター席を立った。雅俊の困惑気味な視線を背中に感じながら、いつもこの瞬間のために練習して来た笑顔を百パーセント表現出来ただろうか、と内心は穏やかではなかった。少しだけ頭で振り返り、雅俊の姿を見た。雅俊は訝しげな足取りであの日の背中を沙耶に向けて店の奥に戻っていくところだった。

「どうしたの、雅俊くんのことず〜ッと見て?」

 セクハラすれすれのいやらしい笑みを浮かべて問う由美。感知しているのだろうが、本人の口から直接聞きたいということだろう。沙耶はしかし、不思議と今は話したい気分だった。

「実はね…」

 この一年越しの邂逅が、沙耶にとってはどうしても特別なものに感じられて仕方なかった。故に先程も思い出していたあの瞬間を、掻い摘んで由美に説明した。

「へぇ…。なんか、偶然なんて思いたくないね、それ」

 由美の言葉に頷く。頷いた仕草を見た由美は、無意識の内に広げられた沙耶のチョコレートを一粒口に運んだ。

「…。じゃあ、沙耶の本命は雅俊くん?」

 もぐもぐと口を動かしながら―――、だが周囲には聞こえぬような小さな声で―――、由美が尋ねた。それに、真っ赤になった小さく頷く沙耶。

「そっかぁ…。だよねぇ。一年も前から、誰なのかも知らずに好きだったんだからねぇ」

 しみじみと言いつつ、もう一粒。続いて沙耶も同様に、由美のチョコレートを頬張った。そしてチラッとカウンターを見やる。雅俊はせっせと働いていた。

「うん、美味しいじゃん、チョコレート」

「ありがとう。由美のも美味しいよ」

 微笑んで言う沙耶。

「さっ、チョコ取りに行ったら?」

「え?」

 突然の一言に、戸惑う沙耶。

「だからぁ〜。今彼が居るうちに、チョコ取りにいきなよ」

 一瞬キョトンとした表情を浮かべたさやだったが、由美の意図を読み取ると、精一杯の笑顔で頷いた。

「…うん!」

「待っててあげるからさ」

 由美はそういうと、試食用に沙耶が持ってきたチョコを指差して、

「これ、置いてってね」

 と言って笑った。

 それにも頷くと、沙耶は勢い良く店を飛び出していった。と、マスターが由美に声をかける。

「沙耶ちゃん、どうしたの?」

「忘れ物取りに行ったの」

 その問に軽くそう返すと、由美はまた一つ、沙耶のチョコレートを口に運んで、これから、この店で見られるであろう光景を一人想像して、人知れず小さな笑みを口元に浮かべた。
 
 
* * *

 
 沙耶は急いで自室に駆け込むと、机の上に置いていた本命用のチョコを手に取った。急いで机の一番上の引き出しに手をかけると、中から一枚の手紙を取り出した。そして、内容を読み返す。

『さんへ』

 まず冒頭。名前を知らなかったので、相手の名前の部分を書いていない。沙耶は急いで雅俊の名前をその部分に書き足した。

『以前は傘は貸してくれてありがとうございました、助かりました。お借りした傘はすぐに返そうとしたのですが、貴方は名前も言わずに行ってしまったので、誰なのか分からず、返しようがないので、今日まで返せずに居ました。あの日、雨の中、走っていくあなたの背中を、あなたの傘を眺める度思い出して、消えなくて、消えて欲しくなくて、毎日必死にあなたのことを考えて、顔も声も覚えてて、それが私の全てで、気がつくと、いえ気付くまでもなく、私はあなたが好きになりました』

 その部分を読んで、沙耶は自分が書いたにもかかわらず、照れて赤くなった。

(やっぱり、恥ずかしい…)

『よければ、電話してください。待ってます。番号は…』

 沙耶は番号を確かめる。確かに、自分のケータイの番号だ。

『では、信じています。From沙耶』

 其処まで読み終えると、沙耶は急いでチョコレートを包んだ箱の裏側に差し込んで、深呼吸する。そして、ついさっき再会した雅俊の姿を思い浮かべる。

 まず思いつくのはあの優しそうな細い目。すっきりとした頬のライン。ぼさぼさだけど、何処か綺麗な短い髪。そして、何故か心に響く、落ち着いた低い声。全部が全部、あの日のままというわけではなかったけど、間違いなく雅俊は、一年前の傘の人だった。

「…急がなきゃ」

 まるで自分に言い聞かせるように呟くと、沙耶は部屋を飛び出した。玄関の笠立に立てかけられた雅俊の傘を手に取り、その足で真っ直ぐに「スカーレット」に向かった。
  
 
* * *
 
 
 由美が沙耶の持ってきていた、試食チョコレートの最後の一粒を口に収めた時、勢い良く店のドアが開け放たれた。

 息を切らせて、肩で呼吸をして、沙耶は乱れた髪を直すことも忘れたまま、ただまっすぐに雅俊の姿を捉えていた。

 その手には可愛らしくラッピングされた、恐らくはチョコレートと、そして沙耶の話の中に登場したあの傘が握り締められていた。

「あ、あの…っ」

 沙耶は意を決して、と言う言葉が似合う程真剣な表情で、けれど可愛く、それでも不安そうな、良く判らない表情を浮かべたまま、雅俊の三歩前で立ち止まって声をかけた。

 緊張して声が上ずっていたから、由美は「頑張れっ」と声をかけた。自己満かもしれないが、それで沙耶の後ろ姿は幾分頼もしく見えた。

「ん?」

 雅俊はまた、さっきの、沙耶にとっては再会した時のように、目を更に細めて振り返った。

「これ…。あの、傘…」

 たどたどしく、何とか言葉を繋げて傘を差し出すと、雅俊は不思議そうに首を傾げた。

「え…?」

「あの、明日はバレンタインで…、一日早いけど、チョコ…です。な、中に…」

「中に?」

 最後の部分を繰り返す雅俊。優しい目元―――。

「…っ」

 沙耶はさっ、と傘とチョコを押し付けるように渡すと、そのまま店を飛び出して行ってしまった。その一部始終を見た由美は慌てた。

「あ、沙耶! マスター、お勘定っ」

 そう言って、由美は二人分のドリンク代をテーブルに置くと、バッグなど一式、全てを抱えて沙耶の後を追った。

「なんだ、騒々しい…」

 マスターはそう呟くと、二人が座ったテーブルの片付けに入った。雅俊は傘を見つめて佇んでいる。

「俺の、傘…?」

 雅俊は呟くと、訳の判らない展開に戸惑って、何か思い出しそうで思い出せないもどかしさを誤魔化すように、頭を乱暴に掻いた。


 
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2009年10月28日:デザイン改修
2005年02月10日: 加筆修正