変わりかけの信号機



 寒空の下を足早に歩く。

 二月十四日程、忌々しい日はない。断言出来る。

 この日に意中の男へチョコレートを贈るという風習は、日本だけの独特な文化であり、これがお菓子会社の陰謀であることは周知の事実であろうが、それでも人々は少数派になることを恐れてか、はたまた特別ではないこの日を心底特別であると信じ込み、自らの胸の内をチョコレートに託して伝えようと躍起になる。

 大体何故チョコレートなのだろう。この日本における異常な風習の詳しい起源は知らないけど、大方恋の甘美さをチョコレートの甘さに例えたってだけのような気がする。当時は斬新な発想だったのだろう、恋はチョコレートのようだ! 考えていることがとてもロマンチックで頭の下がる思いだ。但し忘れてもらっちゃあ困る。恋はいつも甘いとは限らない。

 街に出て見ると、何処も彼処もバレンタインバレンタインと、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返している。どの店に行ってもバレンタインデーに向けて独特の装飾を施していて、お金もない癖に、今まで何処に生息していたのだろう、ツガイの馬鹿どもがウインドウショッピングを謳歌している。カップルカップルバカップル。ねーコウジぃ、チョコ好きー? くれるならチョコより お前が欲しいー、えーばかーえっちー、なんて、聞きたくもない馬鹿らしい会話も、此処に来るまでに何万回も聞いた。全く耳タコだって、勘弁してよ。

 非難の意味を込めて咳払いを一つしたが、誰も聞いちゃいなかった。

 居た堪れなくなって、少しも商品を見ずにその店を出た。何故だろう。自分は何も悪いことはしていないのに、この手痛い仕打ち。少数派はこういう時に惨めだ。やはり二月十四日はろくな事がない。

 暖房で温まっていた室内から一歩出た外は急激に冷え込んで、覚えず震えが足元から背筋を足早に駆け抜けた。一般大衆に、所詮個人は勝ち得ないということを思い知ったが故に、この場所に留まる理由も皆目検討つかず、その足で帰路に着いた。

 寒空の下を足早に歩く。歩く。

 雑踏の中、収集のつかない会話の応酬や、巨大スクリーンに流れる新型携帯電話のコマーシャルソングも右から左に聞き流して、努めて何も考えずに先を急ぐ。見下ろした足元に はつま先が右、左、右、左、とテンポ良く映る。

 そうしていると、自分が一人きりだということをまた思い知る。

 去年だってそうだった。一昨年のことなど言うまでもなく。

 唐突に、人とぶつかった。顔を上げると、大通りの交差点に立つ信号機は歩行者に対して通行止めを宣告しており、車が引っ切り無しに、忙しなく行き交っていた。

 ぶつかってしまった相手に対して詫びを言って、その他大勢と同じように立ち止まった。マフラーを巻き直して、暗くなってきた空を見上げ、どうせ寒いなら雪くらい降れば良いのに、と頭の中で毒づいた。

「…ウソみたい!」

 すぐ耳元でそんな声を聞いた。何がウソみたいなんだ、と訝しげに思って聞き耳を立てていたら、唐突に眼前に、女の子の顔が現れた。

 瞬間感じたのは、肌が雪みたいに白くて、目が大きいということ。綺麗というより、可愛いと言われるタイプの女の子だった。

「あの!」

 女の子は声を裏返しつつも、白い言葉を浮かべた。

「はい?」

 宗教の勧誘やら、募金の催促だったら厭だな、と思いつつ、そういえば募金募金って言ってるけど、新宿で見かける募金の勧誘は一体何処の団体が募っていて、何処に対して寄付されるのか明確でない場合が圧倒的に多いな、とこの場合において凡そ関係のないことにまで思いを巡らせていると、彼女はこちらの都合などお構いなしに喋り出した。

「覚えてますかっ!」

 キャッチセールスか、新手のデート商法の第一段階だろうか。どちらにせよ、そのどちらであってもこちらは一切騙される気はない。しかしまだ相手の真意は見えて来ないが故に、判断を下すのは尚早ではないか。

「覚えてないですよね…」

 と、一人空想に没入していると彼女は表情を一変させて力なく肩を落としていた。

 何気なく視線を上げると、歩行者用の信号は青を点滅させ、また赤へと変わる直前だった。逃げるタイミングを完全に逸してしまったようだ。気付くと周りの人は皆、先程と違う様相を呈していて、そのうちの何人かは興味を隠しきれず、不躾にもチラチラと視線をこちらに投げかけている。

 視線を彼女に戻す。いつの間にか、こちらの顔を見上げて惚けている。ように見える。そんな彼女と偶々視線がぶつかった。

「あっ」

 咄嗟に彼女は視線を外した。

 埒が明かない。

「えっと、俺に何か用?」

 話が進まず、堪えきれなくなってこちらから言葉を投げかける。全く自分でも自分をお人好しだと思う。というか馬鹿だ。これでキャッチセールスなら、ウァレンティーヌスの正義も霧散したとしか考えられない。家に帰って自己嫌悪するネタがまた一つ増えることになる。

「あの………、す、好きなんです!」 

 少しの躊躇いの後、勢い良く告げる彼女。
 
 
 瞬間、世界から音が消えた。
 
 
 雑踏の中、収集のつかない会話の応酬や、巨大スクリーンに流れる新型携帯電話のコマーシャルソング、忙しなく駆け抜ける車の稼動音も、何もかも。それまで溢れていた音が一切なくなって、ただ唯一残っている、音に関する記憶は彼女の言葉と、彼女の息遣い。

 風景は真っ白にはならず、一層周りの関心と視線が集まっていることを痛い程感じる。もう誰も遠慮などせず、こちらの様子を伺っている。

「好きなんです、前から! だから、今日はバレンタインだし、渡せたら良いなって思って、とりあえずはチョコを買ってきたんですけど、よく考えたらあたし、木内さんの顔と名前くらいしか知らなくて。あは、バカですよね、ホント」

 彼女はもうこちらに視線を合わせようとはせず、バッグの中を漁っている。恐らくは先の言葉の中で言及していたチョコレートを取り出そうとしているのだろう。慌てていて見つけられず、更に慌てて、という悪循環が彼女に起こっているのは、誰の目からみても明らかだ。

 しかし不可解だ。一体何処で知り合ったというのだろう。少なくともこちらには彼女に関する記憶はない。

「あ! あの、名前を知ってるのは別にいけないことしたわけじゃなくて! そもそもどうしてあたしが木内さんのことを知っているのかというと、あの、木内さんが働いていらっしゃる雑貨屋さんで一度木内さんに商品について問い合わせた時があって、その時かっこいいなー、って思って名札みたら木内って書いてあって、それで知ってるんです、あたし!」

 既に冷静さの欠片もないのだろう。此処が街頭で、しかも人ごみの中で、こんなに大勢の関心を集めているということも、彼女の意識の中にはないのかもしれない。そして恐らく、これは自意識過剰かもしれないが、彼女の中にあるのは、もはや告白の相手だけなのだろう。

「それで、その時とても親切に対応して下さったので、ずっと印象に残ってて、気付いたらあたし、良くお店に足を運んでて! でも運悪いんです、実はお正月に友達と初詣に行ったんですけど、おみくじ引いたら大凶で…。あ、でも大凶って面白いんですよ『待ち人、来たらず』とか『財産失う』とか碌でもないことしか書いてなくて! 自分のことなのに、その時は思わず笑っちゃって。…あ、それでお店に行ってたんですけど、全然お会い出来なくて…案外おみくじって当たるんだなー、って思ったんですけど、それで木内さんの姿が見えないと何となく寂しくて、でもたまに働いていらっしゃる所に出くわしたらすごく嬉しくて!」

 彼女は思ったことを全部話したいタイプなんだろう。話を聞いていて解る。非生産的な話は嫌いだし、要約して話せない人間は余り良い印象を持ってないのだけど、でも彼女は、厭な感じがしない。

「それで、気付いたんです。あたし、木内さんのことが好きなんじゃないかって。気付いたら、合点が行ったんです。失礼ですけど、買うものもないのに木内さんが働いていらっしゃるお店に通ったり、たまに木内さんにどうでも良いこと訊いちゃったりする疑問に。でもよく考えればそれって木内さんのお仕事増やしちゃってるだけだから迷惑だろうなーとか思って、最近は遠目に商品見てるフリして木内さんのこと見たりしてたんです!」

 もう信号は、最初に気付いてから数えて5度目の点滅を繰り返している。最初は入れ替わっていた人の群れも、次第に暇人がこちらの様子を伺う為に立ち止まり、顔ぶれも変わらなくなって来ている。

「それで、バレンタインだし! ちょっとだけ、好きな人にチョコを渡す気分だけ味わって見たくて、買ってみたんです、チョコ。今まであたし、告白とかしたこともされたこともなくて、こーいう雰囲気に憧れてて、あは、バカみたいですよね、所詮は伊勢丹が始めた商業戦略なのに。それで、買ってみたらただのチョコレートなのに、ラッピングとか可愛くてその所為でしょうけど、なんとなく落ち着かなくなっちゃったんです、渡したくて渡したくて我慢出来なくなったんです」

 意外な所で、バレンタインの秘密を知ってしまった。しかしこの女の子は博識だな、と感心する。慌てていなかったらもっと理路整然とした話し方をするのではないか、と想像が勝手に膨らんでいく。

「それで、もし此処で会えたら渡そうって決めてたんです! いかにも無理で有り得なさそうな条件をつけたのは、渡したいけど無理っぽい条件だったら、渡せない自分の無力さを弁護できるかなーって思ったんでしょうね…。 けど、待ってみたら本当にお会い出来たんです!」

 だから、第一声が「ウソみたい」だったのか。

「もー、本当に吃驚しちゃって! それで、もうこれは渡すしかないとか思っちゃって、勢いで話かけちゃいましたけど、ご迷惑ではありませんでしたかっ?」

 チョコを取り出すのを後回しにしたのか、バッグの中を漁っていた手を止め、彼女は唐突に顔を上げて問いかける。咄嗟の問と語気の強さに押されて情けない声で返事をしてしまった。

「…うん」

 その情けない返事を聞くまで、不安そうに眉根を寄せていた彼女だが、一転して笑顔を浮かべると更に言葉が続く。

「良かったです! それで、あの、ちょっと待ってくださいっ。さっきも言いましたけど、チョコ用意してるので…、あ、漸く出せた! えっと、受け取って頂けますかっ」

 漸くバッグから姿を現したチョコレートは、成る程確かに可愛らしいラッピングだ。

「これね、ベルギー産の生チョコなんです! おいしいんですよー、ちょっと値は張りましたけど、それなりの味だと思うんです! というのも、試食が用意してあったんで、一個貰って食べてみたんですけどもーなんて言うんですか? まろやかな口当たりが最高で! あは、白状しちゃうと自分の分も買っちゃったんです、最近はそーいう風潮もあるじゃないですか、彼氏とかと一緒に食べるっていうの! 素敵だなーって、思いませんかっ」

 差し出されたチョコレートの包みを半ば条件反射的に受け取った。彼女の途切れない話に圧倒されたか、或いは興味を持ってしまったかは自分でも定かではないけど、一つだけ確かなことは、少なくとも募金や宗教の勧誘ではないだろう、ということだった。

 雑貨屋でバイトしていることを知っているのは、友達でも極一部だけだし、そう言われてみれば、たまに店でも見かけたことがあるような、一種の既視感すらも覚える。

「あ、さっきからあたし、話してばかりですよね、ごめんなさいっ。いきなり知らない人からこんなにいっぱい話しかけられたら、あたしだって怖くなっちゃいます。でもね! 嬉しかったんです、話してる内に、っていうかあたししか喋ってないですけど、なんか一方的に親近感持っちゃって。なんか、テレビに出てる俳優さんを友達みたいに身近に感じちゃうあの感覚に似てるんですけど、あ、ちなみに木内さんは今、付き合っている人とかいるんですかっ」

 冷静に彼女を分析していると、そんなことを問う彼女。

「いや、付き合っている人はいないけど」

 つい、本当のことを口走ってしまったのは、唐突に問われたから、という単純な理由からだけじゃなくて、実は顔も声も話し方も、彼女を取り巻く全てが、なんとなく、自分の好みだったからかもしれない。

「ホントですかっ。信じられないです、じゃあ、あたし少しは期待出来ますか? すぐに付き合って欲しいとかは言いません、友達からで良いんです、ちょっとずつでいいのであたしのことをもっと知って欲しいんです、それでもし、木内さんの気持ちが少しでも変わったなら、その時に答えをいただければそれで良いんです、だから良かったらお友達になってくれませんかっ?」

 一息に言い放つと、彼女はお願いしますっ、と頭を下げた。

 自分が抱く緊張より、周りの雰囲気の方がなんとなく張り詰めていて逆に戸惑いを覚える。


 視線を上げると、今度はあの信号が赤から青に変わる瞬間だった。


 彼女は、答えを待って、尚も頭を下げている。そんな姿に心は素直に言葉を紡がせる。

「良いよ」

 しかしなんでこんな恥ずかしいことを言わなければならないのだろう。それもこんな人が大勢いるような場所で。大体此処は横断歩道手前のドセンターじゃないか。他の通行人の邪魔になる。全くよりにもよってこんな所で、こんなセリフを言わなければならないなんて。

「付き合おう」

 周囲がざわめき立つ。

「ホントですか!?」

 弾かれるように顔を上げる彼女。けど、まともに彼女の顔を見ることが出来ない。これじゃあ、さっきとまるで立場が逆転している。

「嬉しいです、一生懸命頑張ります!」

 外野がその一言を合図に、割れんばかりの拍手を向けた。

 全く、これは現実で映画じゃないのに、拍手なんてストリートミュージシャンにだけに贈れば良いじゃないか。

 通りの向こうの歩行者も、何事かとこちらに視線を巡らせている。あそこにいるカップルはコウジくんとその彼女じゃないか? 知り合いでもないのに、周りの空気に呑まれて拍手してくれている。

 街を見渡せば、バレンタインの装飾から、たったさっきまで感じていた馬鹿らしさは消え失せて、モノクロに見えていたその光景は一瞬にして色めきだっていた。

 これが恋の力なのか。なんて頭の中で考えて、さっきまでは思いもしなかったことをホンキで考え込んでいる自分の単純さを罵った。

「木内さんっ」

 彼女が唐突に名前を呼ぶ。

「あたしは、牧野 結(まきの ゆい)です!」

 彼女の名前は、何故だか特別に聴こえた。そして恐らくは、今後最も呼び親しむであろうその名前を、誰よりも上手く呼べるようになれれば良いと、観衆が贈ってくれる暖かな拍手に包まれて、二月の寒空の下、彼女との新しい日々の始まりを記念し、互いに手を取り合った。

 全く、これだから二月十四日という奴は。  
 
 
 二月十四日なんて。ホントに。
 

 ホントに、二月十四日だって、そんなに悪くはないかもしれない。
 


 
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2009年10月28日:デザイン改修
2006年08月05日:デザイン改修