サクラノ詩
恋愛小説専門サイト・「夢の扉」 五周年記念作品



  その街道は、桜の木が何処までも植えられていて、春には視界の限りを薄紅色の風が吹き抜けていく。

 だからと言って花見を始める人はいないけれど、申し訳程度に置かれたベンチに座って、ゆったりとした時間を過ごす人が増えるのもまた事実。信号待ちで止まった車のドライバーも、しばし目の保養を、と窓の外に視線を向ける。

 春はその道沿いを利用する全ての人が、何となくその非日常を通り過ぎていく。

 その通りは、間違いなく不思議な力を持っていた。
 

 二人はその道を、肩を並べて歩いていた。何か言うわけではない。何かするわけでもない。ただ並んで歩く。それだけで充分満たされる、そんな二人だった。

 そんな二人の頭上を、時には白く、時には薄紅色に姿を変えて舞う、小さな花びら達。

 その一片を掌に受け止めて彼女は立ち止まる。

 瞬間、まるでその時を待っていたかのように、少しだけ強い風が颯爽と吹き抜けて行く。

 彼女は風に遊ばれる髪を抑えて、それが止むのを待つ。彼は立ち止まって、肩越しに彼女の姿を見た。

 まるで雨のように降る桜の花びらの中、其処に立つ彼女はまるで桜の精なのではないか、と疑ってしまうほど美しくて、言葉を失ってしまった。

 それはもしかしたら、辺りに立ち込めている春の香りのせいであるかもしれない。

「…桜って」

 不意に、彼女が呟いた。

 誰かに聞いて欲しくて言った言葉じゃない。本当に何となく胸に浮かんだ気持ちを、本当に何となく吐露した、それだけだった。

 だけど、それでも彼には届いた。

  それはいつの間にか姿を消した風や、桜の花びらの舞も一端を担っているようだ、と彼は思った。

「これからは、ただ散っていくだけなんだね…」

 髪にまとわりついた花びらを一枚指で取り除きながら言う。

 彼は一歩一歩踏みしめて、また彼女の傍に立つ。そして、彼女の髪にまだついている花びらを摘んで言った。
 
 
 
「…散らないよ」
 
 
 
 それは凛とした声だった。しかしそれは有無を言わせない力強さを兼ねていた。
 
 
 
「ただ、降るだけなんだ」
 
 
 
 彼は人差し指を真っ直ぐ、澄み切った空に向けて言った。

 空のぬけるような青さと、桜の花びらの薄紅色とのコントラストが妙に幻想的で、一瞬吸い込まれてしまいそうになった。

 彼女は彼の言葉をかみ締める。
 

  
 桜は春にだけ降る雪。
 
 
 
 冬にだけ雪が降るように、また春にだけ桜は降るのだ。

 何故だろう、そう考えるだけで、胸の中に湧き上がった、絶望にも似た喪失感がみるみる満たされていく。

 嗚呼、そうなんだ。桜は散らないんだ。

 この胸の中で膨らんでいく気持ちはなんだろう。

 そう考えて目を瞑ると、眼前に広がったのは紛れもなく幼き日々を過ごした町の風景だった。

 たった今まで忘れていた。しかし今なら判る。

 この気持ちは、あの頃庭の片隅に立っていた一本の、朽ちかけた木の根元に埋めたたからものを、掘り返す日のことを想像した、あの時の気持ちに似ている。

 結局そのたからものの中身は思い出せないし、掘り返すこともなかった。

 きっともう思い出すこともなかっただろう。この通りを歩かなければ。桜が降らなければ。彼が新しい言葉をくれなければ。

 

 それは小さな小さな幸せ。

 

 目を開けると、彼は彼女の前にいた。何処にもいかず、ただ傍にいた。

 それがまた嬉しくて、彼女は彼の腕を抱きしめた―――。



 

 桜降る長い参道。

 二人は確かな足取りでその道を歩く。

 



 全てはあなたと共に。



 彼女は一層力を込めて彼の腕を抱きしめた。



 この参道を歩いて良かった。



 他の誰でもない。



 あなたと共に!
 
 

 

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2006年08月05日:デザイン改修