不意に冷たい風に通りすがり、思わず身体を縮めて寒さを凌ぐ。
冷気をやり過ごし、一寸立ち止まってしまった、駅に向かって伸びる歩道をまた歩みながら、都会も故郷も変わりないんだな、なんて当たり前のことを思い、思わずにいられない程にこの町から離れていたことを思い出し、両親の顔が浮かんで自らの過ちを悔やむ。
車道を駆け抜ける車の風切り音で顔をあげれば、あの頃の日常だった町はまだ概ねあの日々のままで、薄汚れた建物の外壁すらそのままな気がして、思わず携帯電話で日付を確認してしまう。
平成二十四年一月十日。十三時十二分。
疑いようもなく、実に十年もの歳月が流れていた。
あの頃は未知数で不確定で、でも何となく輝かしいものが待ち受けているような気がしてそれだけが全てだった。
心配して共に上京した母と離れる日、見送る道のりの一歩一歩と見慣れぬ町並みの流れに不安をやり過ごし強がった、あの晴れた日を今も昨日のことのように思い出す。
しかし今や仕事に追われ、服の趣味も変わり、髭は剃っても青く残る。一人称も何時の頃からか「俺」から「私」に変わった。
経年由来の変化は間違いなく、今、私の中にある。
夢を叶えるまでは帰らないと自らに誓っていた。
肉体に歳月の蓄積を感じ始めてもなお気持ちはあの頃のままで、譲れない思いは少しも揺らいでいない。
だから、今此処に来たのは負けたからじゃない。譲ったわけでもない。ただ折り合いをつけただけ。それだけなのだ。
十年会わなかった両親は殆ど変わっていないように見えた。
だからつい、私は彼らの子供に戻ってしまいそうになって、だけど話題が通帳や土地の権利書の在処、借金の有無や住宅ローンの残り年数等、十年前には話題にも上らなかった彼らの死後に備えた共有ばかりで、こんなにも元気なのに、もう死んだ後のことを見据えているのかと、堪らない気持ちになった。
気が付けば、母は以前よりずっと背が小さく見えた。父は一層くたびれた。二人の頬や手の甲には記憶にない皺が刻まれていた。
故郷に降り立ったというのに、私はまだ、この町やこの町の人々を私の過去を通じてしか見ていないのかも知れない。
この町こそが現実だと言うには、私は余りに離れすぎた。
はぁ、と意図的に音にして溜め息をつく。
これは故郷にいるからこその郷愁かもしれない。
思考の海から浮上して視線を上げると、居場所を忘れさせるコンクリート舗装された歩道がなくなり、やはり「懐かしい」町並みが広がる。
この町の疎らな人影や、気の遠くなる程にのんびりと歩く老人の歩調、そして都会なら既に数本見送っているであろう電車と未だすれ違わない事実もふと郷愁に服させる魔力を持っているのだと思う。
やがて子どもの時分、慣れ親しんだ十字路が見えてきた。
左手にはまるで一軒家のような小さな駅があり、その向こう側には別の町から町へと続く線路が延びている。反対側に数分歩けばアーケードのある年老いたままの商店街が更にずっと向こうまで続いている。
もしもまっすぐ行けば、別の町に連絡する大動脈に至る。
そうだ。
何故忘れていたのだろう。この道は……。
急に聞き流していた音楽が無視し得なくなる。少しも音量なんて調整していないのに、聴覚の全部が音楽で覆われたようだ。
切ないピアノの旋律から始まり、間もなくベースが転調を告げ、ドラムとギターが苛烈に鳴く。
嗚呼、あの日々のままだ。
同じ音源なのだから当たり前だ、と頭の中でもう一人の自分が嘲笑うが根源的な自分の方はその揶揄を聞き流す。
そうだ、あの時も何処からともなく、この曲が流れていた。
堪らなくなって空を見上げると、整然と並ぶ街路樹の枝葉がそれでも植物独特の法則性に基づき広がっていて、必然時空間が曖昧になる。
此処は死ぬ程好きだった彼女に別れを告げられた場所だ。
それは片思いから始まった恋だったから、思いが通じた時は率直に言って嬉しかった。
嬉しかったから、自分ばかりが喜んで、楽しんで、相手の気持ちなんて一つも考えられていなかった。一緒にいられることが殆ど奇跡みたいなもので、奇跡を掴んだのだと幸せに自惚れていた。これは永遠だと信じて疑わなかった。
長い片思いだったから、と今でもあの頃と変わらない言い訳を思ってしまう。
片思いから始まる恋は、付き合ってからも片思いなのだ。付き合い始めたからと言って、直ぐに好きになって貰えるわけではない。時間をかけて大切になって行くものなのだ。
それが解っていなかった。
もし、今の私の想像力があの頃、幾ばくかあったならば、今はどんな風に変わっていたのだろう。
果たして、別れは間もなく訪れた。
あの日もこんなふうに冷たい風が吹いていた。
だけど風なんかより、余程冷たい予感が、その日はあった。
自己主張しない人だった。だけど別れの言葉は強い意思が明瞭にあり、紡がれた言葉は疑いようもなく明確だった。
別れたい、と彼女は言った。
今でも思い出すと、たった五音が連なるだけの短いフレーズが胸を刺す。もう忘れたはずの彼女の声で、今でもまだ、再生される。
それはまるで音楽のようだ。
いつまでも色褪せない音楽そのものだ。
ヴォーカリストの掠れた叫びに心が共鳴する。
震えているのは心だけだろうか。自信が持てず、強く掌を握り締める。
笑っていてくれよと、ヴォーカリストはいつもと同じ抑揚でそのフレーズを歌う。
全くだ、笑っていて欲しい。
今、幸せであってくれたなら、もしかしたらあの日々も君にとってのかけがえのないものだったのだと言えそうな気がするから。
いつの間にか閉じきっていた目を開けると、私から遠ざかり行く長い髪の女性がいた。
途端に鼓動が高鳴り、呼吸が出来なくなる。
何か嬉しいことがあったのだろうか、足取りは軽やかだ。
栗色の、肩よりも長い髪が歩調なのか、向かい風なのか、靡く様がかつての君と重なった。
駅にたどり着いた彼女は、入口で待っていたのであろう、見知らぬ男性と一言二言話しているようだが、やがて手を繋ぎ隣り合って改札の向こう側に消えた。
ちらりと見えた彼女の横顔は、知らない笑顔だった。
背中を嫌な汗がつー、っと伝って、強張っている全身に気付いて、こんな風にいつの間にか失う恐怖に怯えている自分にまた還る。
笑っていてくれよ、とまた繰り返される祈り。
覚えずついた今度の溜め息は細く震えていた。
口を大きく開けて、空気を沢山吸い込む。
呼吸を落ち着けて願う。
笑っていて欲しい。心からそう願う。
私はもう、何もかもをなくしてしまったけれど。
だけどだからこそ、出来ることがあるはずだ。
携帯電話の時刻を見ると、間もなく目的の電車が来る時間で、これを逃せば一時間程足止めを食らってしまう。
急ごう。
私は走り出す。
まだ間に合うはずだ。
言い聞かせるように、信じられるように丹念に繰り返しながら駅に駆け込み、切符を買って、改札に立つ駅員に見せ、ホームに出る。
無くすものは何もない。ないんだ。
ヘッドホンの音楽は次の曲までの空白を開け、その隙間を縫うように踏切が閉まる警笛が聞こえて、徐行し始めた電車の先頭車両が見えた。
ただ、決めさえすれば良いのだ。
向かい側のホームに行かなければならないから、陸橋を駆けのぼる。
それだけで、未来はきっと、変わって行く。
間近に迫る電車の走行音。
否、変えてみせる。
全長の短い、たった三両の電車がホームの端に差し掛かり、かと思えば間も無く止まった。
私は意識して足に力を込め、走る。
自らの足の力だけで、私は進む。
進むんだ。
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2012年7月10日:初出
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