あの頃に戻れたら



 今この病室で、たった一人死に行く女性が居た。年は80頃だろうか、悲しそうな顔をしている。見取る者は、医師を除いて、…誰も居ない。

『こんなハズじゃなかった…』

 彼女はもう、喋れぬ程苦しかった。そんな中、未練だけが積る。

『彼と、あんな喧嘩さえしなかったら…っ!』

 彼―――。63年前に別れた、彼。

 この瞬間まで。80年間生きてきて、この『死』の瞬間まで吐かなかった弱音を吐いた。彼女の運命を大きく狂わせたあの出来事。あの時に戻って―――。

『やりなおし、たかっ…た…』

 刹那。

「…午後10時…」

 その言葉を聞いたのを最後に、彼女の―――、森下 端月(もりした はつき)の悲しい生涯は幕を閉じた。

 

* * *

 

 意識は深く沈んでいた。

 死後の世界は実在するのだな、と何処かで端月は考えていた。

 目の前に、小さな光が見えた。

(あれに、入るんだよね…)

 そして、光に近づくにつれて彼女は気付いていった。

(なんか、言葉が若返っていく…?)

 そう、老いた体になるにつれ、言葉も古くなっていた自分。なのに、今の意識の言葉は若者のような言葉遣いだ。

(それになんだか、力がみなぎって来る…っ!)

 ずっと忘れていたこの活力。端月はだんだんと力がついて行くのを感じている。

 そして、眼前に広がった大きな光―――。端月は勢い良く、その中に飛び込んだ。

 

* * *

 

「…っ!」

 不意に、頭が落ちるような感覚に捕らわれて、端月は小さな悲鳴を上げた。

「…ん? どうした、森下」

 急に、先生に声をかけられて驚いた端月。しかし、平静を装って笑顔を作る。

「いっ、いえ…。消しゴム落ちちゃって…」

「そうか」

 先生はそれ以上追及せず、授業に戻った。一応、机の上に乗っている消しゴムをさり気なく握ってから地面に手をついて、あたかも消しゴムを拾ったかのように見せかけておいた。

 しかし…。

 良く考えてみると、何かおかしいではないか。自分の手。この前まであったシワが無くなって、しかもスベスベである。

「えっ?!」

 つい、声を上げてしまった。瞬間、気付いて口を塞ぐと、クラスの視線はその殆どが彼女に注がれている。

「…今度はなんだ?」

 さすがに、今度ばかりは先生も呆れ顔だ。端月は瞬時に色々な言い訳を考える。

「えっとぉ…。そこの問題が、まさかそんな答えになるなんて、と思いまして」

「……そうか」

 疑いの眼差しを向けつつ、先生はまた、授業に入った。周りは小さな笑いが漏れている。端月は顔を紅潮させながら席についた。

(…どうしたの、私の体…)

 と、その考えに彼女自身、ツッコミを入れる。

(って、ええ?!)

 彼女は今度は小さく辺りを見回す。

 何ら変わりない、普通の授業風景…?

 端月は死んだ。80歳という天寿を全うして。しかし、この風景はなんだろう。それに、この体。全ては謎のまま、ただこの時間が過ぎることを待っていた。

 

「起立、礼!」

 端月はその号令の後、すぐにトイレに駆け込んだ。

 そして、大きな鏡に自分の姿を映す。愕然とした。声を無くすほどに。

「………」

(…これって…)

 端月はまず、鏡の中の自分を観察する。

 真っ白い肌はあの頃と変わらない。しかし、同じくらい白かった髪の毛が、今ではそのボリュームも増えて、色も懐かしい茶色になっていた。顔の張りをとってみてもその違いは見て明らかだ。

「…どうなってるの?」

 鏡を覗き込んでいる自分を、周りの女の子がジロジロと見ている。…自分で言うのもなんだが、可愛い顔をしていて、鏡を覗き込むなんて行為、喧嘩を買わないという保証はない。端月はそれくらいにして、教室に戻った。

 

「どうしたんだ、お前?」

 教室に戻るなり、男に声をかけられて警戒する端月。が、その顔を見て―――。

「とっ、智之?!」

(智之…っ!)

 この男(ひと)だった。もう一度、やり直したいと想った相手は!

「突然叫んじゃって。俺も恥ずかしかったんだぞ」

 あの喧嘩から、ずっと逢わずに生きていた頃、何度思い出しただろう。彼の、智之の顔を。声を。

「あ…っ。ごっ、ごめん…」

 端月は俯いて、顔を紅潮させた。何十年ぶりだろうか、こんな気持ちを抱いたのは。

 しかし、端月のそんな素振りを見て、智之は不審に思い、顔を覗き込んできた。

「キャッ!」

 驚いて飛び退く端月。つられて、智之も驚いた。

「なっ、何だよ、やっぱおかしいぞ、お前。保健室行くか?」

 端月の手を取って、保健室に連れていこうとする智之をふんばって止め、端月は笑顔で言った。

「ちっ、違うの、大丈夫! 久しぶりに智之の顔見たから、つい…」

 言った後で、しまったと思った。昨日は平日かもしれない。

「…まぁ、二連休あったけどな」

 端月は智之の言葉を聞いて、胸を撫で下ろした。

「けどお前、電話してきたじゃん、二日とも」

 ギクッ、とした。確か若い頃は、そんなことをしていたかもしれない。

「ほっ、…ほらぁ、女の子はね! かっ、顔が見たいものなの! 寂しいんだからぁ」

「…そんなもんなのか?」

 釈然としない、といった面持ちで、智之は訊き返してくる。

「そーなの!」

 少し苛立って、端月はぶっきらぼうにいってしまった。

「そっか、分かった。ところでさ、今日は部活休みらしいから、一緒に帰ろうぜ?」

 しかし、智之は何もなかったかのように、話題を見事に変えてのけた。正直、この力があの時、少しでも智之から発せられていたら…。あんな想いを抱いたまま、死に行くことはなかっただろう。

「…うん」

 少し気後れしながら笑顔を見せる。智之は安心ようだ、はにかんだ笑顔を覗かせている。

「じやあ、また後でな」

「うん」

 小さく手を振って別れた。

  端月は自分の席に戻って行く智之の後姿を見送ると、自分も席についた。

(どうしてこうなったんだろ…)

 再度、この状況について思案する。理由などまったく考えられない。少なくとも、いまの時点では。それに、今日は何日だろう。いや、まず何月? 少し肌寒いから、9月頃だろうか。

 端月はそのまま、黒板の右端に目を向ける。10月10日…。

(あれ、なんだっけ?)

 何か、ひっかかる。何か大事なことがあった日。不覚にも、それがなんだかわからない。これだけが、何なのかわからない…。つまり、今日だということだろうか。

 最後の授業、開始のベルが鳴る。端月は全ての思考を切り替えて、とにかくまた、授業が終わるのを待った。そう、放課後には智之と帰れるのだから。

 

* * *

 

 放課後は、以外にも早く訪れた。高校生の頃、一番好きな教科のグラマーだったからだろうか。

「どうした、端月?」

 智之が不思議そうに訊いてくる。慌てて笑顔を見せる端月。

「別に!」

「…そうか?」

 釈然としない、といった面持ちで。とりあえずは訊かなくなった。端月は胸を撫で下ろす。

「なぁ、端月…」

「え、何?」

 いきなりの呼びかけに驚いた端月が顔を上げる。

「あのさ…」

 顔を紅潮させて、智之が言う。

「俺達って、付き合ってるんだよな…」

「え…。う、うん」

 そう答えた時、端月は思い出した。

(そっ、そうだ! この後智之が―――!)

「…キス、してみない…?」

(っていって、私が拒んだから、あんな喧嘩になったんだ!)

「…え?」

 自然と、あの時のように声が漏れる。

「恋人同士なんだし、さ…?」

 智之が自然と近づいて来る。彼はクールで女性に興味はなさそうだが、実は人並みの欲求があったらしい。

「な?」

 端月は唇と目を頑なに閉じると、首を―――。

(……っ!)

 縦に振った。智之は更に顔を紅潮させると、ゆっくりと端月に近づいて…。

 触れ合った唇に驚いて―――分かってはいたが―――肩を小さく震わせた。

「………」

「………」

 やがて、唇は離れて。二人は暫く見詰め合った。

「私…」

 端月の言葉に、智之が黙って彼女を見つめる。

「幸せ、だよ―――」

 満面の笑顔を見せて。端月は自分の胸の内を智之にさらけ出した。

 

* * *

 

『そう、これが私の夢見ていた人生の始まり―――!』

 端月は―――、老いた姿の端月は嬉し涙を流しながら呟く。

『本当は、この時素直に頷いていたかった。ただ、ふとわいたプライドの塊が、あの唇の間に割って入ったの!』

 更に端月は、誰に言うでもなく続けた。

『もう、もうどうなっても良い! これ以上の幸せは望まない…』

 そして、彼女は気付いた。さっきまで自分の視点で見えていた智之が、まるで他人の視点のように。そう、自分と、若い自分と智之を見下ろす位置にいた。

『そう…。私、夢を見てたのね…』

 その呟きは、彼女から視覚を奪った。刹那、暗闇が広がっていく。

『これで分かったわ…。私の未練が、こんな夢を見せたのね…』

 と、次は聴覚が奪われた。

『…もういいの、充分よ。私を逝かせて…』

 そう願った刹那。彼女の残った感覚が、一つずつ失われていく。まずは触覚。身に纏わりついていた冷たい波動を感じなくなる。続いて味覚。口に広がっていた血のような味を、もう感じられない。最後に嗅覚。この空間を包み込んでいたであろう、鉄の錆びたような匂い。もう、感じない。

『ありがとう、ありがとう…』

 唯一のこった思考がそう思った時、彼女という物体は無くなった。

 未練。

 それは時として、人を幸せにしたり、不幸にしたりする。それがどう転ぶかは、心の持ちよう。想う気持ちが強ければ、あなたの思い通りの未来、過去。

 見れたり、変えられたりできるかも、しれない…。


 

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2006年08月05日:デザイン改修