そうなる兆し



 電車の中。本を読んで気を紛らわせようとバッグの中に手を入れ探ったら、本を忘れて来ていることに気付いた。

 自分の用意の悪さに半ば呆れ、心の中で大きな溜息をつくと、急に手持ち無沙汰になった右手をどうしたものかと思案してポケットに仕舞った。

 そこにはケータイが入っていて、触れて初めてその事実を思い出した。これ幸いとばかりに手に取り、折り畳んであったそれの隙間に親指を差し込むようにして弾き、現れたディスプレイを見る。いつもの待ち受けと時計が表示され、後三十分は暇を持て余さなければならない不自由を知った。

 イヤホンからは止め処なく音楽が溢れ、それで一応は満たされているけれど、満足するには情報が少ない。車窓に切り取られるようにして映る風景も、しかし次の瞬間には違う絵で、堪能するには至らず充足を感じるとは言い難い。

 時間の間隙を十二分に味わう為にはやはり音楽を聴き、本を読むことだ。活字は確実に何かを与えてくれるし、音楽はあらゆる制約から心を解き放つ。

 電車はいつの間にか、スピードを落としていく。

 そうして徐行運転を始める電車に揺られながら、開けたり閉めたりして遊んでいたケータイに、もう一度目を落とす。受信メール一覧を呼び出して、もう何度も繰り返し読んだきみのメールを表示する。

『あたしも楽しみにしてます! でも映画観るのは悠(はるか)くんと行ったあの日以来だよ』

 きみのそのメールは、勿論最初に受信した時と何も変わっていないのに、それでもこうして、何度も繰り返し読んでしまうのは、いつの間にか変わってしまったぼくの自然が、ぼくを支配するからに他ならない。

 きみの存在がぼくにとって特別ではなかった時、きみの言葉は、言葉以上の意味を伝えようとはしなかった。なのに今では、言葉以上の意味をぼくに詮索させるし、文字と文字の間を彩る笑顔の絵文字も煌きの記号も、それ以上の意味はないかと期待させる。きみから発せられた言葉たちはきみの笑顔を想起させ、きみの声すら再生させる。

 すると唐突に、音楽を切り裂く鋭い警告音が響く。

 いつの間にか駅のホームで止まり、また発車してささやかにスピードを上げる電車の窓から望める景色が、少しずつきみの待つ駅に近づいていて、もうすぐ始まるであろうきみとの時間を更に待ち遠しく思わせる。

 だから何も変わっていないことを承知の上で、もう一度だけきみからのメールを読み返す。

『あたしも楽しみにしてます! でも映画観るのは悠(はるか)くんと行ったあの日以来だよ』 

 ぼくはもう、きみに問いかけずには居られない。

 それは映画を観るのが楽しみなのか、ぼくと同じように、会えることが楽しみなのか、それともただの社交辞令なのか……、きみの言葉がぼくの判断を鈍らせ、心を掻き乱す。

 いつからだろう。いつからきみをすきになったのか。いつからきみのことばが、こんなにもぼくのすべてになったのか。

 恋は本当に唐突で、理由も与えない。

 例えばきみの何処を好きなのかと問われても、ぼくにはその有り触れた質問の答えを口には出来ない。例えばきみの何が好きなのかと問われても、ぼくには思いつきさえしない。だからぼくは、逆に問い返すだろう。

 好きになってしまった真実以外に、何を求めるのかと。

 この胸に息づく慕情は、疑いようのない痛みを伴って、日に日にぼくを侵食して行く。それは春が春だからと言う理由だけであの暖かさを説明出来ないのと同じように、些少な、若しくは圧倒的多数の要因を持って、こちらの都合など一切顧みずに溢れ出す。

 けれど。

『メールするって言った割りに話題考えてなくてごめんなさい!』

『悠くんだって喋りかけてくれないじゃない! じゃあ、絶対話そっ! 明日は絡んでくからっ。ちなみに、さっきのメールであたしは十分ドキドキしました……、女の子は単純なのだ』

 そうなる兆しは、

『てか、服の裾つかまれてドキッとするのは本当?! 悠くんだったら何にドキッとするのかな?』

『裸エプロンはちょっと違う気がするー』

『悠くんだ! あたしもメールしようと思ってたんだよ! でも昨日のメールに今日は早く寝ちゃうって書いてあったからメールしようか迷ってたの』

『今日はあんまり喋れなかったね……、受けてる講義が違うとなかなか会えないね。火曜日ってつまんない』

 希望にも似た感覚で、

『ちなみに改札通る時はピコーンってならないかどうかビクビクしてるよっ、あたしも表面上はめっちゃクールぶってるし! サッ、シュッ、パッ、てけてけ! みたいな』

『やっとテスト終わったね! おいでませ春休みだ! あ、悠くんはまだ終わってないんだっけ? 早く終わるといーねっ』

『今日は洋服を買っちゃいました! そして春先にも履けるような白いパンプスと、ジーパンも買ったし、ピンクと緑の服も買ったよ! なんとなく春色な感じでしょ?』

『わぁい! いつもあたしが先に寝ちゃってたから何か……勝った気分になってます。今日はねー、夕方はちょっと用事があって、夜は友達が泊まりに来るんだ! 悠くんは、今日はどんな一日なんですか?』

『判った! 十一時半に、JR池袋の東口だね! 遅れないでね』

『あたしも楽しみにしてます! でも映画観るのは悠(はるか)くんと行ったあの日以来だよ』

 ぼくに予感させた。
 
 
 あの日、ぼくはきみを誘って映画に行った。

 恋愛物だったし、観たいは観たいけど、男同士で観るのは気が引けて、どうせ観るなら女の子とが良いな、なんて単純な発想。誰か一緒に行ってくれそうな子を考えた時、なんとなく、けれど真っ先に、きみの顔が浮かんだ。
 
 
 思えばそれが始まりだったかもしれない。

 だけどもっとずっと前に、始まっていた気もする。
 
 
 体感速度が限りなく緩やかになって顔を上げると、電車はもう駅に乗り入れるところだった。見慣れた西武池袋線のホームがゆっくりと右から左に流れていって、停止し、多くの人は幾許もしない内に開くドアの前に列を作っていた。

 ぼくはケータイをまたポケットに仕舞い、立ち上がる。そして列の最後尾に並び、開いたドアから吐き出されるように、外に出た。暖かかった車内から、冷たい風の吹く外への変化は、瞬間心地良さを演出してくれるけれど、足早に 、改札の向こう側で待つきみへの歩みを進める内に焦燥を煽り、更に先を急がせる。

 あと少しで、きみに会える。

 ぼくはきっと、もう言ってしまうだろう。

 会って、きみの顔を見たら、もう言ってしまうだろう。

 その兆しがぼくの中に生まれたその時から、こうなる予感はきっとしていたのだろう。今となってはそれは些細なことに過ぎない。

 改札を目の前にして、ぼくはきみのメールを思い出す。そしてきみと同じように通過する。そして今更ながらに思う。

 ずっと言いたかったんだ。

 駅を出て、人通りの多さに嫌気が差しながらも、きみに会えることを思いながら、足早に人と人との間隙を行く。

 そうして、ぼくはJR池袋駅の東口に着いた。

 少し乱れた呼吸が仄かに白く色づいていることを感じながらも、駅から波のように押し寄せてくる人の群れや、何本もある柱の影、まちぼうけしている人々を次から次へと見回して行く。

 早く会いたい。早く伝えたい。

 ただそれだけの理由。

 かじかんだ手が冷たくて、ぼくは両手をポケットに差し込んだ。周りの人は知らない人ばかりで、後は忙しなく歩く人々の中に、きみの姿を探すばかり。

 不意に、ケータイに着信がある。

 ぼくは急いでケータイを取り出し、いつものようにディスプレイに表示されたメールの着信情報を見る。

 それはきみからのメールだった。

 画面の上端に表示されている時計を見る。待ち合わせの時間まで、後十分はあった。

 恐らくこのタイミングでのメールは、遅刻の報告だろう。もしかしたらきみはぼくより先に来ていて「遅いぞっ」と、ちょっと膨れっ面で怒ってくれるんじゃないかと期待していた。そういうきみの仕草が可愛くて好きだから。

 ぼくは受信したメールを開いた。

『うしろ』

 そのメールにはたった一言、そう書いてあった。ぼくは途端に嬉しくなって、後ろを振り向く。

「こら」

 其処には、きみが立っていた。

「遅いぞっ」

 膨れっ面できみは言う。

「……待ち合わせの時間まで、後八分はあるけど?」
 
 ぼくは予想通りのきみが嬉しくて、つい憎まれ口を叩いてしまう。

「あたしより先に来なさいっ」

 そう言うや否や、満面の笑みできみはぼくの隣に並びかけてくれた。何の躊躇いもなく、そうすることが自然のように、きみは並びかけてくれた。

 きみにどんな思いがあってぼくと会い、隣にいてくれるのかはやはりまだ計り知れない。だけどぼくの中に芽生えていた兆しがよりその姿を克明に見せた今では、きみの思いまで考える余裕なんてなくて、隠したいけれど伝えたいぼくの思いは既に、ぼくの意志とは関係なく、言葉となってきみとぼくとの間の空気を震わせていた。

「……千沙(ちさ)」

 まるで大好きな歌を歌うようにきみの名前を呼んでみた。

「今日、映画観終わったらさ、言いたいことがあるんだ」

 きみは不思議そうにぼくを見ていた。けれどぼくときたら、きみの顔が見れなくて、真っ直ぐ前を向いてしまう。

「何? どんな話?」

 きみは興味深そうに問い返して来る。けど、せめてこれからの時間は楽しく過ごしたいから、今はまだ。

「ヒミツ」

 ぼくは言葉を濁して、代わりに手を差し出した。いつもは恥ずかしくて差し出せなかった手を、ちょっとだけ変わったぼくは躊躇わずに差し出していた。そんな自分に内心では戸惑いながらも、きみの行動を信じてみる。

 きみはぼくの顔と手を交互に見て、少し笑った。それは希望的な観測で言えば、照れて笑っているようにも見えた。

 そうして繋いだ手の冷たさが、その冷たさの奥に微かに感じる体温が、却ってぼくたちの「そうなる」兆しを予感させたことは言うまでもない。

 繋いだ手に指先に、もう少しだけ力を込めてぼくらは歩き出す。

「ねぇ」

 記憶通りのきみの声が鼓膜に触れる。

 
「早く映画、終われば良いのにね」


 

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