彼女の嘘と、僕の無知



 首に巻いたマフラーに帯びた熱と、ミドルノートの香りが薄れ行く香水の微かな主張とで、僕は咄嗟に彼女を引き止めた。

「…ちょっと待って!」

 普段以上にのんびりとした歩調で駅に向かう彼女の背中が立ち止まった。肩の少し上で綺麗に切り揃えられた髪が、振り返る彼女に合わせて宙に舞う。なんの疑いもなく、彼女に見惚れる瞬間。

「なーに?」

 さっきの「またね」の言葉を交わした時よりも弾んだ声。何かを期待する声色に、僅かな躊躇いも覚える。

「あのさ」

 言いながら、僕は彼女との距離を埋めていく。その過程で僕は自分の巻いているマフラーを解き、手に持った。

「寒くないの?」

 白い彼女の言葉はやがて色を失ったけれど、空気を震わせる音色だけはいつまでも僕に響いていた。

 目の前に立つと、彼女は僕の顔を見上げた。そんな彼女の首元に、僕はさっきまで巻いていた自分のマフラーを巻いてあげた。

 不思議そうな顔をして、けれど嬉しそうに微笑むと、彼女はマフラーに顔の半分を埋めた。

「暖かい」

 それに、良いにおい。
 
 彼女はそう付け足してえへへ、と照れ臭そうに笑った。

「それで寂しくないだろ?」

 僕はいつだったか、彼女が言った言葉を思い起こしていた。

 彼女は「そうだね」と呟くと、もう一度マフラーに顔を埋め、胸一杯に空気を吸い込んだ。そして息を声に代えて震わせる。

「こうして、あなたを傍に感じられるしねっ」

 それはマフラーに残った僕の余熱がそう言わせたのかも知れないし、 僅かにしみた香水の香りがそう言わせたのかも知れなかった。

 けれど今大切なのは、そのどちらなのかを考えることではなく、今、目の前にいる彼女を抱きしめることだと思った。

「え…」

 彼女は少し驚いたように、身を硬くした。だけどすぐ緊張を解くと、小さく笑って抱きしめ返してくれた。そして、僕の頭を撫でながら「どうしたのー?」と問うのだ。

 僕はされるがままで、ただしっかりと抱きしめた。

 そうしてどのくらいの時間が経っただろう。

「あっ」

 唐突に彼女が声を上げた。

 僕がちょっとの間ワガママを突き通していると、彼女は困ったような声色で告げた。

「終電行っちゃった…」

 それで僕は、漸く彼女を放した。

「え、今何時?」

 僕は彼女が着けている腕時計を見るべく、長袖に隠れたそれを発掘しようと手を伸ばすと、彼女は慌てて半身を翻して阻止を試みる。

「だめっ、やだっ、ないしょ!」

 不可解な彼女の行動に僕は伸ばした手を引っ込めた。しばし熟考して一言。

「えっと…、時計見せて?」

 とりあえず許可を請う僕。

「お断りしますっ」

 ソッポを向いて不認可を申し渡す彼女。

 どうしたものか、と頭を掻いていると、一層冷たい風が二人の間を吹き抜けた。首元が自棄(やけ)に寒いと思ったら、彼女の髪と共になびく見覚えのあるマフラーを見て、やっと彼女に貸したことを思い出した。

 その時、コートの右ポケットに入れているケータイのバイブレーションが作動した。

「あ、メール」
 
 僕は右手をポケットに差し入れた。

「それ!」

 と、今度は僕の腕を彼女が掴む。

「…何?」

 僕はいよいよ、自分の苛立ちを表立たせてしまう。

「私が送信したの!」

 オイオイ。

 僕は堪らず笑った。

「笑わなくても良いじゃない」

 頬をハムスターみたいに膨らまして拗ねる彼女。

「もお良いよ、帰るっ」

 捨てゼリフを置き土産とばかりにそのまま回れ右すると、ビデオの三倍速みたいな歩調で歩いていく彼女。もうすっかり状況を把握出来ない僕は、駆け足で彼女に近寄って、やっとの思いで肩を掴む。

「放してっ」

 漸く立ち止まって彼女が僕を振り向く。少し息を切らせて、何故だか瞳には涙をためて、言い放つ。

「もっと一緒にいたかっただけだもん、悪い?!」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

白く色めく彼女の言葉。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

心に響く音色。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 


なにより。
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

なによりも、自分の愚かさを知った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 

 彼女はいつもそうだった。
 
 同い年なのに、生まれた月がたった一ヶ月僕より早いという理由で、得意げに僕をリードしてくれようとする。

 そのくせ甘えたがりで、良く子猫みたいに擦り寄ってくる。

 いつも、そうだった。

 そうだったのに。

 僕は彼女を力任せに抱きしめた。

 彼女を思うと、大切にしたいとか、優しくしなきゃとか思うけど、丁度今みたいな気持ちを、どうしようもない愛しさを感じた時、僕は自分自身を失ってしまう。

「…くるしいよ」

 ぽつりと、雨の雫みたいに呟く彼女。そのわりに、僕を抱きしめ返す腕の力はいつもより強い。

「ね、一緒にいない?」

 僕は言う。

「今日は離れたくない気分なんだ」

 言って、我ながら素直じゃないと思う。こんな時にだって、本心を隠してしまう。

「わたしは」

 でも、彼女は。

「わたしは、いつも一緒にいたいと思ってるけど?」

 やっぱり、彼女には。

「あなたは違うの?」

 全く。

 
 
「敵わないな!」


 

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2006年08月05日:デザイン改修