悔恨



 もう、メールしないって言ったのに、またメールしてごめん。けど、読んでくれたら嬉しい。

 お誕生日おめでとう! ただ、それだけが言いたかった。それだけだから。



 彼は、メールの本文を打ち終えてから幾度となく見直しを重ねていた。

 漢字の間違いはないだろうか、文章がおかしな所はないだろうか、失礼が、ないだろうか…。

  そう思いかけて頭を振る。

  もし失礼があるとしたら、それは別れて一年の月日が経っているのに、彼がまだ、元彼女のメールアドレスを消せずにいたこと、二度と連絡を取らないと誓った約束を破ろうとしていること…。

  それでも送らないわけにはいかなかった。大切に思っていた人が生まれた日だから…。

  頭では判っている。それは自分に都合良く解釈しただけである、ということ。

  あて先の選択で、昔親しく呼んでいた彼女の名前を選んだ。アドレスが表示される。これも見慣れていた文字列。

  決定ボタンを押す。

  あて先には彼女のアドレスが表示される。送信ボタンを選択する。

 だけど、その先ができずにいた。どうしても決定ボタンを押せない。

  一年も前のアドレスだ。今は違うアドレスになっていてもおかしくなかった。だから、それが怖かった。別れて一年の間に、様々なものが変わったという事実を突きつけられるのがどうしようもなく怖かった。

  例えば気持ちの整理をつけて、送信したとして…ネットに繋がった瞬間に、あて先不明の表示が出たら…。

  やり場のない不安だけが彼を雁字搦めにする。

  彼女にメールをすることが、こんなにも怖くなるなんて思いもしなかった。

  不意に彼は、そう思った。

  目を閉じる。

  あの時の言葉が彼を締め付けていた。

  彼女に言った言葉。取り返しのつかない言葉…。

  気づけばいつも、後悔だけしかしていない自分がいた。

  毎夜毎、目を瞑り、眠りに落ちる間の時間は…懺悔の時間だった。

  消えることのない罪…。そんな格好の良いものではないけど近いものは感じていた。

  謝って言葉を取り消せるものなら、と何度夢に見たことだろうか。悔恨の念に苛まれる。

  そしてまた都合良く解釈するのだ。

  …この苦しみこそが彼女に対する贖罪なのだ、と。

  目を開いた。蛍光灯の光が眩さを増していた。

  メールの本文をまた確認する。

  そして彼女に対する冒涜だと思った。それでも送らなければこの気持ちが治まりそうもなかった。彼女を思う、気持ち。

  思い切って送信のボタンを押した。センターへの問い合わせが、いつにも増して長く感じられた。送信…されていく。

  彼は咄嗟に目を瞑った。アドレスが存在しない、と言われると、直感的に思った。

  そして…そうあるべきなのだと悟った。

  今更何を言っても、何をしても気持ちは届かないのだから。

  そう思うと、少しだけ気持ちが楽になっていた。いつも感じていた恐れも感じていない。いまは唯…穏やかな気持ち。

  ケータイの画面を確認した。そして思わず声を上げた。

  …送信された。

  まだ、このアドレスは存在していた。

  彼は覚えずケータイを落としてしまった。しかしそのことに気づかない。…正確に言えば気づく余裕など皆無だった。

  そこに残ったのは悔恨だった。

  メールの返事などくるはずもないだろう。ただ、届いては削除されるメール。

  気づけなかった。メールを送ることに何の意味もないことに。 

  後の祭り。

  そんな言葉が浮かんでくる。

  彼はケータイを拾い上げた。揺るぎない決意を持って、その名前を削除した。あの頃は覚えていた番号も、メールアドレスも、今となっては記憶の片隅にさえも残っていない。

  だから、これで良い。

  これで日々見る悪夢も除々に薄らいで行くだろう。

  そうあって欲しい。

  彼は充電スタンドにケータイを戻した。

  明日からはこれで、新しい自分に生まれ変わることが出来るだろうと、心から思った。

 悔恨の念は音もなく消えていた。


 

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2006年08月05日:デザイン改修