七月の熱は、
彼女の隣を奪わせる



 突き詰めて言えば、世界とは常に取捨選択を強要し続ける時空間を指して言うのではないだろうか。

 些か大袈裟な言い草かもしれないが、身近なものを引き合いに出して想像すると、それは酷く解り易い。例えば新しい本を手に入れようと書店に入る。其処では大雑把に言って既知の作家を頼りに選ぶか、または未知の作家を開拓すると言う二通りの選択肢を得るだろう。後者を選択した場合、気に入る文章を書く作家を探し出す為の選択肢は、あらすじを読んで興味の赴くままに身を任せること、友人からの紹介を受け入れること、そして第六感の指し示すものを、等それこそ人によってありとあらゆる基準が存在する。一つの目的を達成するにはそれこそ無限連鎖的に選択肢が増えていくのだ。

 世界にはこのように、無数の選択肢が散らばっている……が、しかしたった今、俺が可及的速やかに決断しなければならないのは、

「ほらほら! ウェイトレスさんが困ってるでしょー。早く早くっ」

 向かいの席に陣取る彼女、西野 初寧(はつね)は、ぱたぱたと手を振って俺の決断を迫る。ウェイトレスさんはそんな彼女と、俺の迷惑そうな眉間の皺を見て微苦笑を浮かべている。

 ……だって仕方ないじゃないか。苺のショートケーキとチョコレートパフェは双方共に、俺の食思を理屈では言い表せない理屈によって刺激し続けるのだから。

 ショートケーキは舌に乗せただけで溶けてしまいそうなスポンジに純白の生クリームをまるでドレスの如く上品にその身にまとい、スポンジの下段と上段を繋ぎとめる中段には、苺と生クリームの魅惑的な共演を惜しげもなく実現している。更に苺の活躍は留まる所を知らず、ショートケーキの頭上では、生クリームで創り上げられた王座に腰を下ろし、初々しくも瑞々しい、真っ赤な素肌をまざまざと魅せつけている。言葉が無くても感じられるその赤い官能は、見るもの総ての視線を釘付けにし、一刻も早く堪能せよと仰せられているような錯覚さえ覚えてしまう。

 対してチョコレートパフェは、最下層部にはバニラアイスを待ち構えさせ、その上にコーンフレークを惜しげもなく散りばめていて、更にその上の階層にはチョコとバニラのアイスクリームが行く手を防ぐかのように鎮座する。加えてバナナがグラスの縁を舞い踊り、その中心には生クリームをふんだんに敷き詰めて、またしてもバニラアイスが大胆に姿を見せる。その周りにはクッキーが割り散りばめられ、これでもかと言わんばかりにもう一度チョコレートアイスが顔を出す。最後通告と言わんばかりに頂上を制するチェリーの赤が眩しい。其処にホットチョコをかけると言うからその味の芸術性は疑う余地もない。

 詰まる所どちらも捨て難く、喉の奥で唸り声を噛み殺していると、初寧は大げさにため息をついて、

「そんなの気分次第だよ、パフェにしなさい」

 と言うや否や初寧は俺の意思などお構いなしにウェイトレスさんに「チョコレートパフェで。後、メロンソーダも」と注文した。ウェイトレスさんは俺の顔色を伺うように視線を投げかけつつ注文を繰り返し、最後にチョコレートパフェで宜しいでしょうか、と遠慮がちに尋ねて来た。

「いいえ違います」

 と言える程俺に甲斐性はないので、涙を呑んで首肯した。

 俺のリアクションを見たウェイトレスさんは気の毒そうな笑顔を置き土産に「畏まりました」と言い残し、営業臭さを感じさせない恭しさでお辞儀をすると小さな身体を翻して背中を向け、カウンターへと消えて行った。出来るならばその後ろ髪にすがりついて、自分の言葉で注文し直したい。

 が、とりあえずは目の前の、諸悪の根源に抗議する。

「……もし俺がケーキの気分だったらどうしてくれたんだ」

 けれど努めて大人な対応を心がけ、極力感情を排除して問う。

 しかし初寧は親の心子知らずを体現したような態度に、天使かと見紛う程の笑顔を浮かべ「だってパフェなら私も遠慮なく貰えるじゃない?」なんて全く自分本位な答えを返して来た。

 それでもう不平を言葉にするのも億劫になって、頬杖をつき鼻を鳴らす威嚇で抵抗の構えを示す。

 しかし初寧は何処吹く風とばかりにあっさりと視線をメニューへと外す。が、そうやって無視しつつもこちらの態度をギリギリ視界に納めてこの状況を楽しんでいるようだ。その桜唇おうしんが今にも口笛を奏でそうな笑みを形作っている。

 ……全く、初寧には頭が上がらない。

 これ以上彼女のしたり顔を見ていると言わなくても良いようなことを言ってしまいそうな気がしたので、テーブルの隅に置いてある調味料数種やペーパーナプキンに一瞥をくれるも、取り立てて面白味のあるスパイスがあるわけでもなく、心の空洞は満たされず、飽きて直ぐ窓の外に視線を逸らした。

 射し染めるオレンジ色の陽光は、また今日と言う日が終わることを暗に示した。

 たった一枚窓硝子で隔たれた向こう側の世界では、夥しい人々の誰もが自らの思惑に基づき、忙しなく街路を往来する有り触れた光景が広がっていて、いつもは気にも留めない風景なのにどうしてだろう、今日に限ってそれが自棄に鼻につき、それはまた常日頃感じている違和感を唐突に思い起こさせた。

 険しい表情で何か携帯電話に向かって話しながら足早に俺の視界を遮っていくサラリーマンも、タンブラー片手に何処かへ行き急ぐ女の人も、浴衣を来た少女らの集団も、それぞれにそれぞれの思考を廻らせながら、生きている。何かを考え行うのは自分だけのような錯覚を稀に抱くけれど、そうではないと改めて思い知る瞬間。

 そうやって眼前の光景に時間を忘れ、場所を忘れ、誰と居るかさえ忘れて没頭していると、初寧は無躾にも割と強い力を込めて俺の頭を(はた)き倒した。

「何女の子ばっか見てるのよ」

 初寧は俺の巡らせていた思索の一端すら垣間見ようとせず、ただ自分の憶測から導き出したで結末を真実と信じるに十全と結論付けて、結果箸にも棒にも掛からない罵りを口走った。

「あのなあ」

 俺は堪らず声を荒げる。

 しかし彼女は既にこちらに対して興味を失っているのだろうか、それでもまだ不機嫌ですと言わんばかりの顔つきでいつの間にか運ばれていたメロンソーダに挿したストローを咥えていた。メロンソーダは炭酸ではない空気の気泡をその水面にブクブクと打ち上げている。

 そんな子供染みたことをする彼女を見た所為だろうか、それともそんな表情を自分がさせたと言う、これも憶測でしかない絵空事が抱かせた、見せ掛けの喜びに胸の内を偽られたからだろうか。つい数瞬前に湧き上がっていた怒りは、罵詈讒謗(ばりざんぼう)になって喉にまで出かけていたのに、急速に冷めて行き、寸での所で飲み込んだ感情が、しかし勢いまでは止められず曖昧なため息となって密やかに「……別に他の女なんて見てないよ」と言う響きが空気を震わせず、空気に同化して、霧散した。
 
「ふぃっ!」
 
 と、何の前触れも無く、初寧がメロンソーダに絶えず送り込んでいた気泡が目を見張るような激しさを伴って緑色の水面を揺るがした。その激しさは飛沫をテーブルにまで撒き散らした。

 恐らくはストローに送り続けていた空気の続きであろう悲鳴が、ストローから何らかの理由で唇を離した瞬間に零れ落ちて、その可愛くも奇妙な音を最後に響かせたのだと推察する。

 周りの客の喧騒をも他所に、居心地の悪い静謐の延長のような空気が、その余韻が二人に気まずい沈黙を広げていく。

 惨劇を目の当たりにしていた俺は、そして恐らくは犯人であるところの初寧も頭では早く拭かなければいけないと思いつつ、お互いに脳裏を逡巡しているであろうあらゆる想像が、身体を動かす神経すらを拘束してその力を解かない。

「……あの」

 しかして、最初に沈黙を破ったのは先程のウェイトレスさんだった。驚きから反射的に見上げた先に立っていた彼女は、丁度チョコレートパフェを運んで来てくれた所らしい。トレーにはメニューの写真より魅惑的なそれが乗っかっていた。
 
「直ぐにお拭き致しますね」

 と、ウェイトレスさんは飛沫を避けるように注意しつつチョコレートパフェをテーブルに置くと、間髪居れず身を翻して、恐らくは台拭きを取りに、またカウンター奥へと引っ込んで行った。

 その勤労さに尊敬の念を払拭出来ない。まさかこの日本の、よもやこんな片隅でサービス業の鏡のような御仁に巡り合えたのはまさか偶然ではあるまい、と自分でも良く理解出来ない感動を覚え、再び半身を現した彼女を刹那的に視覚した瞬間、

「……うそつき」

 と、初寧の理不尽に刺々しい言葉が響いた。まず何を責められているのか判らなかったし、糅てて加えて声に遠慮なく込められていた非難の音色が、不審感を抱かせる。

 もしかしたら彼女の形の良い眉が、険しくも脆弱な色彩に染まっていたからか、果たして真偽は自分でも解き明かせないけど、だからこそ気遣う気持ちも忘れ、ただただ衝動から湧き上がる反感が言葉に出来ず四半秒が過ぎ、続いてその短い沈黙を埋めるかのように初寧が「嘘つきって言った」と繰り返したから、その後の言葉を飲み込まざるを得なかった。

 相変わらずの非難めいた唇はまだ言葉を続けそうだったけれど、早速戻ってきたウェイトレスさんがテーブルをせっせと拭いてくれたことで、二人ともそれ以上何も言葉を交わさずに済んだ。

 だけど沈黙はそれだけで重圧となってその一帯を覆い尽くした。耳に届くのは、ウェイトレスさんが新しく増やされた仕事を健気にもテキパキと片付ける音―――正確にはテーブルを拭く音だけど―――と彼女の息遣いだけ。

 気不味さがやがて罪悪感を鈍らせ、こうなる過程を思い巡らせる。まるで風を切るランナーみたいに回想は触れ、また過ぎて行く。

 背中に一筋、厭な汗が伝う。

 視線を忙しなく掠める台拭きからその向こうに座る初寧に移し、俯いて表情を見せていないことを見るとまた手元のコップに目を落とす。

「あの、ホントにすみませんでした」

 間もなく拭き終えたウエイトレスさんに初寧は涼やかな、しかし多分に陳謝の調音を加えた声で問いかけ、果たしてウェイトレスさんは柔和な微笑みを浮かべた顔で小さく頷いて応えたかと思うと、今度は違うお客さんの接客へと赴いて行った。

 彼女の存在を見送って、また二人きりに戻ったテーブルは騒動の前とは若干異質な静謐を得、周囲はまるで何事もなかったかのように、否無関心に各々の応酬を続ける。

 こんな時くらい黙って居て欲しいなんて、利己的な衝動に駆られる。

 コップの掻いた汗に手を濡らされ、紙ナプキンで手を拭ったは良いけれど、なんとなく手持ち無沙汰になって、両手を膝の上に置いた。

 結局その後、初寧は一言も声を発さず丁寧にも二本用意されたパフェ用の長いスプーンを一つ手に取り、俺の承諾なしに、どう少なく見積もっても半分以上は奪い去って行った。
 
 
* * *
 
 
 そのまま険悪な雰囲気が続くのは何としても避けたいと思っていたけれど、こういう展開は流石に想像していなかったと言うか。

 すっかりと暗くなった遠くの空に、色鮮やかな大輪が華咲き、四半秒遅れて鼓膜だけではなく身体中を震わせる重低音が弾ける。

「汗掻き過ぎ」

 初寧は顰め面で吐き捨てて、さっさと自分から繋いだ手を振り払った。と、手にしていた白地に赤や黒や水色の金魚が描かれている巾着から、俺が先月の彼女の誕生日にプレゼントした桜色のハンカチを取り出した。

 人気のない、木々の深く茂った獣道。足元は大小種々の小石が転がっていて、時折昇る花火の儚い煌き以外は、もう遠くなった街の下世話なネオンと、一億年もの時を遡る年老いた光だけが灯火で、時折小石や陥没に足をとられ歩き難そうにしている初寧は、こちらの心配りも何処吹く風と、丹念に掌を拭い始めた。
 
 せめて、躓いた時は支えようと決める。
  
 
 
 ……あの後、初寧がスプーンを置いたので満足したのだろうとあたりをつけた俺は、早速半分になってしまったパフェを二倍味わう為に口へ運び込んだアイスクリームを、溶けていく前に舌先で丹念に転がしていた。

 暫くぶりに堪能したハーモニーは、記憶と違わぬ美味を守りつつ今日に継がれてきたようで、心の安寧を感じざるを得ず、果たしてもう一口、二口と口内へ運搬すべく背の高いスプーンを半壊した巨塔へ斜めに差し込もうとした時、初寧が今一度スプーンを握り締めた。

 触らぬ初寧に何とやら、と手を止める俺。そんな俺を睥睨し、再びパフェを切り崩していく初寧。

 また自分の分が減る、なんて心で落胆していた俺の口元に、
 
「はい」
 
 差し出されたのは果たして細身で長身なスプーン。其処に乗っているのは厚手のクッキーの欠片を覆った、チョコソース付のバニラアイスだった。

 真意を測りかねて、そのまま沈黙を守った。

 初寧は心なしか頬を紅潮させ、しかし更に表情を険しくして「くち」と短く言った。ような気がした。だから「くち?」と繰り返すべく唇を開くと、スプーンが声を押し込めるように差し出されて来た。直後口の中を甘い三重奏が支配した。

 まだ良く状況が飲み込めていない俺が追ってこの行為を理解する頃には、初寧はもう外方を向いて、こちらを見てはくれなかった。
 
 
 
 もう一つ、今度は目を瞠る程深い青が暗いばかりだった空の一端を染めた。

 見上げて、まだ少しだけ続く道程の中途で、初寧と途切れてしまったことを寂しく思う。出来るならあのまま、最後まで手を繋いで歩きたかった。
 
 隣を、今散り行く花火のような群青の生地に、鮮やかな赤紫の花弁を持つ朝顔の模様が入った浴衣を纏い、歩き難そうに歩く初寧を見て、またもう少しだけ歩調を緩やかに、そしてもう一度見る。

 と、ハンカチを仕舞っていた初寧はいつの間にかこちらを見上げて、遅れてやってきた花火の音にかき消されないような大きな声で問い掛けて来た。

「ねえ」
 
 
 
 食べ終えた、いつもより半分少ないチョコレートパフェに若干の名残を感じつつ、スプーンを置いた。

「ねえ」

 待ち侘びたかのように、しかし不協和音のような声色を奏でる初寧。

「そろそろ」

 視線を俺の目から窓の外に映すことで、言葉の続きを告げる。先の一件の所為か、口数も減っている。

 つられて見れば星も視覚出来る位暗くなった空が広がり、街頭も明々しい光を燈していた。

 確かに、彼女の言う通り花火大会の始まる頃合だった。

「行くか」

 俺の問いかけに、席を立つ事で応える初寧。

 俺は二人分の会計を済ませると、遠目に今日お世話になりっぱなしだったウェイトレスさんに目配せで謝罪の意を伝えると、それに頭を小さく下げて微笑み応える彼女を見届け、外で待つ初寧の元に急いだ。

 横に並びかけるのも束の間、俺の歩調に合わせて歩き出す彼女の思い遣りを知っているから、特に今日は歩き難い格好の初寧に合わせ、応えるように心持緩やかな歩調でそのまま歩く。

 合わせて歩き始める初寧。しかし今日は、彼女に目的地を知らせていないから、一歩後ろを歩いている。

 雛鳥が心許無く親鳥の後を追うようなその頼り無さに、背後に居る初寧には感じ取らせぬよう、口元だけで笑う。

「ねえ」

 と、初寧は唐突に元気のない、しかしそれでも刺々しさを保った言葉を放った。まさか笑ってたことがバレたのだろうか。

「……何だよ?」

 内心では小心者のような腰の低さを披露してはいるが、決して表層にはそれを出さないで問い返す。

 顔だけ振り向いた俺の視覚には、俯き前髪で表情を殺した初寧の、色彩が見えない顔が映った。

「手、繋ぎたい」

 それで初めて、初寧の俯く真意に思い当たった。
 
 
 
 初寧の目を見る。

 でも、彼女は目ではなく、手でまた、言葉を継ぐ。

 僅かに、さっきまでの繋いでいた温もりを宿した小さな初寧の掌がまた、一回り大きなこの掌を取る。何だか不思議な感覚を覚える。

 けれど、それよりもまた手を取り合うことが出来た喜びを感じている。脈動を感じることはなくても、この確かな温もりと繋がりを感じることさえ出来れば、それだけでも良いと思える。

 この僥倖を逃さぬよう、少しだけ相手を思い遣らない力を込めて、掌を握る。それでも初寧は文句一つ言わず、少しだけ握り返してくれる。勘違いかも知れないと危惧してしまう程か細い応答だったけれど、短くてもずっと傍にい続けて来たから、判る。だからこの夜こそは、もう初寧の「傍」じゃなくて「隣」を選び、奪いたい。

 緩やかな傾斜を昇り続けて早十分。群生する左右の木と木の間隙が少しずつ開き、やがて眼前の風景が切り開かれたような広がりを見せた。

 その僅かな空白を埋め合わせるかのように、線香花火の爆ぜ模様を模倣したかのような大輪が花開いた。

「……急ごう!」

 初寧は立ち止まって零しかけた感嘆を飲み込み、あさがおより儚い運命の華を暫し見上げると、今度は急に俺の手を強く引いて、先を行き急ぐ。

 想定していなかった初寧の行動に気後れしつつ、彼女の引力に従う。押さえつけられない高揚が身体を支配する。

 彼女が切り進む風は、彼女の肌の残り香を届けてくれる。立ち込める七月の熱でさえも、彼女には打ち勝てないらしい。彼女が届ける風はもう七月の熱だけではない熱を体中に駆け巡らせる。

 いよいよ林を抜けて、初寧は立ち止まる。

 そして、今度こそ感嘆の吐息を漏らす。

 まるで山を削ぎ落としたような、切り立った崖の危うい先端の向こう側を見下ろすと大地を二分するかのように流れる大きな川が姿を見せ、その川辺では先程から空に咲き乱れている花々の種が蒔かれていた。

 着崩れた浴衣の胸元や足元を気にする素振りを見せつつも、肩で息をしながら次の打ち上げを心待ちに待つ初寧。

 童心を小さな身体一杯に満たして、恐らくは無意識の満面の笑みは、この場所を選んで良かったと言う自己満足を感じさせてくれる。けれど隣に立つ他人が見惚れていることを感知していないのだろう、その瞳には映ることが出来ない。それだけのことがとても寂しく感じられた。

 肩を抱きたい。

 急に激しい劣情が理性を襲う。

 手を伸ばせばそれも叶う、そう考えていつの間にか再び途切れていた掌の繋がりを知る。せめて今この瞬間だけは、鎖のように硬く繋がっていたかった。

「あ!」

 初寧の弾む声と時を同じくして、空が茜色に華やぐ。光速と音速の狭間で、俺は初寧の嬌声をキッカケに、音が届くより早く、彼女の肩を抱いていた。

 花火の鮮やかさに背中を押して貰って、また彼女の拒否する声を音に掻き消して貰うつもりで、反射的にそうしていた。強い拒絶を覚悟していた。実際受け入れられなかった時の不安への言い訳も考えないままそうしていた。

 だけど抱き寄せた矮躯は、心なしか熱を増し身動き一つせずに腕の中に納まっていた。

 鼓動は花火の咲く音より、大きかったかもしれない。

 俺はもう一歩、踏み出す。

 腕に力を込めて、自分の胸の中に抱き込む。少しだけ抵抗の色が見えたけど、されるがまま、初寧は素直に俺の胸に頬を寄せた。俺は丁度彼女の頭に自分の頬を寄せながら、今度は身体中で初寧を抱き締める。

 出来ればお互いの体温で溶着して、一人の存在になってしまいたい。叶わない望みと理解しているのに、強暴な劣情は制約やしがらみ、一切を超越して不可能を夢見させる。

 また一つ、花火が上がった。

 だけどもう、胸の中にある存在しか見えない。

「ねえ……花火上がった」

 未だ頬を胸に当てる初寧がこうなって初めて、口を利いた。

「悪い」

 彼女に倣って端的に答え、腕の力は少しも緩めない。時間の赦す限り離れたくなかった。もう、隔意なんて何処にもなくて、ただそうしたいからというだけの理由で、初寧の自由を束縛する。

 お互いに何度目かの深い呼吸を繰り返して、沈黙を守った後。

「……ドキドキしてる」

 初寧はいつの間にか耳を寄せていたらしい。花火に欺いて貰うつもりだった心音はしっかりと初寧にも伝わっていた。けれど羞恥は感じない。もはやこうしていることこそが、初寧の傍に居る理由だった。

 俺は右腕を初寧の腰に回し、この癒着が剥がれ落ちないように支え、退路を失った兵士がただ前を見据えて進むように、左手で彼女の頬に触れた。初めて触れたその頬は、月並みだけどとても柔らかかった。

 俺がそうさせたのか、それとも初寧が不埒な男の意思を汲み取ってくれたのか、彼女の俯き気味だった顔は思い描いたような角度に上向く。

 彼女はもう、目を瞑っていた。

 微かに震える彼女を右腕だけでもっと強く抱き締める。どうしようもなく近しい場所に居ることを、そうすることで知らせたかった。知らせることでその愁眉を開いて欲しかった。

 もう、彼女しか見えない。感じ得る総てが初寧だった。

 まるで自然に唇を重ねた。

 そうすることが、ずっと昔から決まっていたような気さえしていた。遠慮がちな浅い呼吸も、初めて重ね合った唇の夢心地も何もかも、世界でたった二人だけのものだった。
 
 花火が続けて、無数に昇った。今だけは、この光景は二人の為のものだと信じようなんて荒唐無稽な思いを唇に意味付けして、更に強く押し付けることで伝えようと思う。
 
 更なる侵食を試みる傍若無人な進攻を、初寧は微力ながら、しかし確かに俺の胸を押し返すことで拒絶する。

 体温が急速に、蒸し暑いはずの七月に奪われる。もしかしたら、かけがえのないものが生涯から欠落していくかも知れないという予感に触れ、包み込んだ幸せが怖くて全身に込めた力を解く。
 
 途端、絡みつく蔦を振り払うよう、初寧は乱暴に身体を離した。

 もう手を伸ばすだけでは届かない初寧の身体。彼女は俺に背中を向けて、肩で荒く乱れた息を落ち着かせるよう、何度も深く呼吸を繰り返していた。

 その酷く小さな背中を、ただ呆然と見守るしか出来ない。

 肩を抱く時、拒絶されることを思ったりしていた。だけど、実際に拒絶されるなんて思っていなかった。心の何処かで初寧に受け入れられるだろうを信じていた。信じて疑わなかった。

 だから事実起こってしまった最悪の事態に、もう初寧の言葉を待つより他なかった。

 乱れ咲いた花火はその火花の、最後の軌跡を虚空に描き、闇に溶け入った。月を思わせる寂寥は二人の間に、溶着し一つになれたと一時は本気で思えた、よりにもよってこの二人の間に、その絶対的な隔たりを知らしめるよう、胸の中で満ちたり欠けたりした。

「どうしてキスなんてするの?」

 唐突に、これまで一緒に居た時間を突き放すような辛辣な色彩を帯びる声色の問いかけ。

「ねえ」

 初寧はいつの間にか呼吸を落ち着かせていた。

 少しだけ時間を置いて、俺の答えがないことを確認すると、彼女は念を押すように「どうして……」とヒステリックに繰り返した。

 その哀求にすら、声が出ない。

「こたえてよ」

 業を煮やした初寧は振り返って今一度問い掛けてくる。その宝石より輝く瞳には、触れたばかりの頬には、涙の雫が拭われず、ただ零れ続けていた。

 それきり、初寧は何も言わなかった。どんなに俺が愚かだとしても、人が人の気持ちを知れないとしても、彼女がたった今求めるものは、幾らなんでも解った。

 何も躊躇うことはない。あの時、肩を抱いた時に、思ったはずだ。もう後押しをしてくれた花火はない。ならば大切な彼女を呼ぶことで、気持ちを奮い立たせよう。

「初寧」

 例えば先行く後ろ姿に出くわして、例えば眠りに落ちる寸前まで、或いは眠りに落ちてからも呼び続ける、もしかしたら自分の名前より慣れ親しんだたった三文字の発音が、その順序で紡がれることが、いつの間にか当たり前に続く世界を変えていた。

 初寧は包まれていた幸せから見放され、孤独に成り行く子猫のような目をして視線を絡ませた。こんな目をさせたくて抱き締めたり、口付けたり、名前を呼んだわけじゃない。それだけは誤解して欲しくなかった。

 立ち竦む彼女の不意を突いて、もう一度両手で優しく抱き締める。

「好きだ」

 押し返されるより早く、それだけ言い放った。

 初寧の身体を巡った緊張は一瞬硬直を増して、しかし瞬きを三回もしない内に無力になって全体重を俺に預けてきた。

 彼女を支えると言う大義名分を盾に、随分とそうしていた。ささやかでも溺れる程柔らかな胸の膨らみも、彼女が纏うからという理由だけで眩暈を覚える程甘く感じる肌の匂いも、何もかもが心を掻き乱すけど、それでも随分冷静でいられた。

 やがて、初寧がゆっくりとその両腕を俺の背中に回した。

 そしてまた、時間が止まったような時間が流れる。

「ねえ」

 そしてそれを、当たり前のように彼女が壊す。

「もう一度して」

 胸が疼く。何か言おうとして、でも蛇足だと思い直して、口付ける。彼女が求めてくれるものを、今はただ、分け合いたい。

 
 
 そして、初寧はゆっくりと唇を離した。緩慢な所作は俺と同じように名残惜しさを感じてくれているのではないかと希望的観測を抱かせる。胸の内では、友達から恋人に変わった目の前の女の子を大切に思う暖かな気持ちで満ちいたい痛い……。

「こら」

 何を思ったのか、急に初寧が胸を両手でぽかぽか叩き始めたので、此処何年か言った覚えのない陳腐な怒号を力なくあげる。

「何すんだよ」

 初寧の両手首を掴んで理不尽な攻撃をやめさせる。それでも力は緩まず、更に力を込めて来る。勿論、一発だって当たってやらない。

「初寧」

 名前を呼んだ。それをキッカケにしたのか、初寧は今度は身体をぶつけて来た。その衝撃に思わず倒れそうになるのを寸での所で何とか踏み堪える。

「遅いよ……」

 止め処なく溢れる涙を必死で堪えようとしているのか、言葉尻が飲み込まれるような、詰まった声。

「どれだけ待ったと思ってるのよ、バカ」

 声の震えは隠せていないけど、初寧らしい口調が戻る。

「好きじゃなかったら、一緒にいないでしょ、普通。感じなさいよ」

 刺々しい言葉遣いも健在だ。

「鈍感。唐変木。うすらとんかち」

 言い過ぎじゃないか?

「あんたなんて……」

 何か言い返そうと口を開きかけた瞬間、初寧が、恐らくは爪先立ちになり、いつの間にか俺の束縛から振り解いた両腕を俺の首に絡め、抱き締め、耳元で呟いた。

「好きになるの、私くらいなんだから」

 震える声。不安にでも、恐怖にでもなく、ただ愛しさに震える声。

 初寧の抱える思いを全部は知ることが出来ない。だけどその一つ一つに宿る意味を俺は俺なりに知っている。

 例えば傷には痛みが、過去には思い出があるように、刻むと言うことにはいつでも痕が残る。

 だけど愛しさは余りに莫大過ぎて、余りに多くを抱え込む。愛しさは不安も安心も、強靭さも脆弱さも、夢も現実も、孤独も充足も、痛みも快楽も、希望や絶望と、あらゆる対極を同時に感じるもの。

 それは、どれだけ信じていても、疑いを伴うということ。
 
 それはとても辛いということ。
 
 だけど悲し過ぎる現実には、せめて手の届く夢を。

 俺はまた、全身の力を初寧を包む為だけに総てを注いだ。二人の鼓動が刻むリズムのすれ違いでさえも、切なく感じた。どちらも冗談みたいに早いけど、それだけでは満足出来ない。少しでも違う部分をなくしたい。

「信じろ」

 初寧は頭に絡めていた腕を解く。口惜しかったけど、それに倣って彼女の拘束を解放する。彼女のすることには必ず意味があった。

 果たして、見つめ合う。

 俺を見上げる目は答えを探るように真っ直ぐで、しかし桜色の柔らかな唇は、少し言葉を迷って、それでも紡いだ。

「……じゃあ、一つだけ教えて」

 彼女にしては珍しく躊躇いがちな、弱気な問だった。面食らったけど、俺は言葉ではなく態度で先を促した。

「あのウェイトレスさんのこと、ホントに何とも思ってないの?」

 言うや否や、頬を極限に真っ赤に染めて視線を逸らす初寧。豆鉄砲を喰らった鳩の気持ちが、この瞬間に至って漸く理解出来たと嘯いても誰が疑うだろうか。

 真剣に答えなければと思いつつ、声を出せば確実に笑い出してしまう地獄にあってまともに話せなくなる。

「……何笑ってンのよ」

 辛うじて声を抑えていたけど、その沈黙を訝しく思ったのか、逸らしていた目を再び俺に向けて来た初寧は、制御出来なかった表情の奇妙さを見て冷徹な声を上げる。

「笑っ……て、な……い」

 笑いを必死で堪えながら言っても、まるで説得力がなかった。

「もういい」

 初寧はフン、と鼻息を鳴らし元来た道を辿るように早足で歩き出した。俺も慌てて背中を追う。

 全く、誰が想像しただろうか。会って間もない、知り合いとも知人とも言えない他人を、目の前の存在より好きになんてなるはずがない。

 何となく、喫茶店でメロンソーダを飲んでいる時から不機嫌だな、と思って接していたけど、まさか初寧がそんな感情を抱いていたなんて、思い至らなかった。

 自分だけが一方的に好きなんだと思っていたのに、どうしてその可能性を疑えるだろうか。
 
 夢見ることは、あったけれど。

「初寧」

 卑怯だとは思いつつ、駆け寄って後ろから抱き締めた。意外と抵抗はなかった。意表を突くように左耳に唇を寄せて、甘噛む。可愛い悲鳴が聞こえて、また静かになって、告げる。

「初寧だけが、好きだ」

 彼女の鎖骨の辺りに絡めた両腕を、それから暫くして初寧が触れる。両手で柔らかく触れて来る。

 それからまた、少しだけ言葉に迷うようにして初寧が言った言葉を、生涯忘れないだろう。

 初寧は決して顔を見せず、やはり素っ気無い調子でこう言った。
 
「だ、大事にしなさいよ!」

 精一杯の強がりなのだ、と今なら解る。

 幾ら憎まれ口を叩いても、増す体温や、いよいよ共鳴する鼓動は何よりも饒舌に真意を告げていることは、彼女の計算には入っていないようだ。それならいつか、彼女がそのことに気付くまで、精々この密やかな優位を愉しみたい。
 
 見上げた余程暗い天井には、一つ二つと打ち上がっていた花火の残像だけが、いっぱいにひろがっていた。
   


 
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