胸の中に



 五月の空が、心なしか哀しげに見える。それは、彼の心が泣いているからだろうか。

 彼、梶原 伸彰(かじわら のぶあき)は一人、ある場所に向かっていた。

 それは、彼のフィアンセの眠る墓だった。そこには以前、彼が供えた指輪があった。幸いなことに、中身も無事のままで。

 彼女が亡くなった日は、くしくも二人の婚約した日だった。

 伸彰は泣いた。本気で自分も死のうと思った。それ程、愛した人だから。自分だけ生きていても仕方がない。そう思っていた。

 しかし、その考えは変わった。両親に言われた。

『貴方まで死んでしまったら、貴方の中に生きている彼女はどうなるの?』

 それから彼は変わった。以前より増して、何事にも精一杯取り組むようになった。そして、忘れない。この日だけは忘れずに、毎年訪れている。

「……亜理紗」

 伸彰は墓前に立つと、フィアンセの名前を呼んだ。勿論、応えなど帰ってこない。もう、二度と…。

「…っ…」

 分かっていても、何年経ってもこの時だけは、涙してしまう。彼女の、亜理紗の前なのに。カッコワルイところを見せたくないと思っても。溢れてくる想い出だけは…。

 止められない。

「亜理紗、今日は報告があるんだ…」

 伸彰は腰を落とすと、ゆっくりと話し始める。

「絵画教室に行ってる、って前、言ったよな?」

 一拍置く。亜理紗が微笑んで、頷いてくれているところを想像して。

「そこの先生がさ、一緒にパリに行かないかって。パリで勉強すれば、もっと良い絵が描けるって。…俺の腕を誉めてくれたんだぜ?」

 亜理紗は驚いている。伸彰は笑った。

「大丈夫、一ヶ月もすれば帰って来る。そしたらまた、亜理紗の所に来るから」

 亜理紗は目尻に涙を溜めているが、精一杯の強がりで微笑んでいた。

 伸彰は、頭を振る。

(違う、これは俺の妄想なんだ…っ!)

 亜理紗の笑顔が、瞬時で霧散する。

(想い出の中に生きたって、未来を開けない! わかってる。けど…)

 亜理紗は、消えやしない。

 伸彰は立ち上がると、そのままきびすを返して墓地がら、亜理紗から遠ざかる。次第に、早足になって行く。それは充分感じていた。

「さよなら、亜理紗…」

 伸彰は人知れず呟いて。自分の呟きを聞いて涙した。

 

* * *

 

 そして、月日は過ぎ。

 もう、伸彰はパリに発つ日がきていた。

 搭乗口に着くと、彼はその目を見開いた。どうしてそんなことがあるだろうか、信明は自分の思考を遮断した。絶対に、そんなことありえない!

 目の前には、見間違えるはずもない、愛しい亜理紗…。

「…あり、さ…?」

 伸彰は呟きながら、彼女に近づいて行く。

「おい、伸彰君?」

 絵画教室の講師も訝しがって、伸彰に声をかけた。しかし、伸彰の動きは止まらない。

 愛しいから、何度も撫でたあの黒髪。風に舞うそれを抑える仕草。それが好きだった。大きな瞳が揺れて、伸彰を見つめる時。時には涙を流していた時もあったけど、そんな時を共に越えたから、あの時の二人があった。

 想い出にしたくて、忘れようと思った時もある。けれど、あの笑い声を、可愛い笑い声を思い出すと、忘れようとしたことが苦痛に思えて何も出来なかった。…結局は、弱いから。

「…亜理紗、俺だよ、伸彰…」

 亜理紗は振り向いた。刹那。

「亜理紗?」

 霧散した。彼女の姿は、何事もなかったかのように、霧散した。そう、ここまで来ても、彼女のことを想っている。忘れられない、忘れることの出来ない思い出は、眼前に広がっていくから。

「………」

 伸彰は立ち尽くした。講師も見守っている。

 ふいに、空白の時が訪れる。

 伸彰は顔を上げると、講師に向き直った。

「…さぁ、行きましょう」

 伸彰は、目尻に涙を溜めたまま笑顔を見せた。触れてしまえば、儚くて、壊れてしまいそうな笑顔。男の見せるそんな笑顔は、時として人の心さえ動かしてしまう。

「…いいのかい?」

「ええ、絵を描きたいんです。本当に、好きな、…絵…を……」

 後は、言葉なんていらない。

 二人は黙って並ぶと、飛行機の中へと入っていった。…それこそ、吸い込まれるように…。

 

* * *

 

 パリで暮らし始めてから、もう何年の時が過ぎただろうか。

 あれから、伸彰はまた変わった。絵だけに、命をかけた。

 時には野に咲く花を描いた。パリの町並みを写生したことだってある。けれど、一番得意なのは、人物画。…想像上の人物さえ、簡単に描ける。…彼女なら。

 伸彰はゆっくりと目を閉じた。一年前に受賞したあの人物画を思い出す。タイトルに「胸の中に-フィアンセの微笑み-」とつけた、その絵は。

 誰もが声を失うほどの出来だった。

「亜理紗、見てくれたかい…?」

 伸彰は、静かに呟いた。


 

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2009年10月28日:デザイン改修
2006年08月05日:デザイン改修