風鈴



 チリン、チリン……。

 余韻を残す、涼しげな音色。見る者の目を楽しませる、西瓜や彩りの美しいかき氷の絵。

 チリン、チリン……。

 風鈴は奏でる。

 チリン、チリン……。

 優しくて、涼やかな音色を。
 

* * *
 
 
 牧野 夏緒(まきの なお)は、学校に行くのは好きでも、家に帰るのはどうしても嫌だった。

 家に帰れば遣る瀬無い気持ちにしかならない。辛く、厳しい現実をたった十五という年齢で突きつけられるのだから。

「あなた! お願いだからそんなものを口にしないで!」

 母の悲痛な叫びに迎えられ、玄関の戸をくぐる。夏緒は急いで台所に行く。

 其処には、子供のように声を上げて泣く父の姿があった。口には台所用のスポンジが咥えられている。夏緒は慌ててそのスポンジを力ずくでもぎ取った。

「お父さん、これは食べ物じゃないんだよ! すごく汚いものなんだよ!」

 夏緒は必死で叫んだ。しかし、容赦なく父の拳が夏緒の腕をめがけて振り下ろされる。瞬間、凄まじい激痛が彼女に襲い掛かる。夏緒は、それでもスポンジを渡さない。必死で父に抱きつき、なだめようとする。

「お父さん、ケーキあげるから! 静かにして! お願いだから……!」

 そういうと、意味を持たない言葉をただ喚いていた父は大人しくなった。また、忘れている。スポンジを食べたいと思っていたことを。

「お父さん……良い子だよ、お父さんは良い子だね……」

 夏緒は父の背中を撫でながら、優しい声をかけた。母は唯さめざめと泣いていた。

 始めはなんとなく、父が物忘れが多くなった、と感じる程度だった。

 例えば、昨日言っていた約束のケーキを買い忘れて来たり、会社の傘で自分のではない誰かのものを持って帰ってきたり……。

「もぉ、お父さん! 昨日ちゃんと約束したのに!」

 夏緒が凄い剣幕で捲くし立てると父は困った顔をして「ごめんな、夏緒。父さんすっかり忘れてたんだ……仕事のし過ぎでどうにかしてたんだ、本当にごめんな」と謝っていた。心から謝っていた。だから、夏緒は勿論許した。そして皆で笑いながらテレビを見て、普通の生活を送っていた。

 しかしそれが……エスカレートしていった。

 ご飯の途中で急におしりのポケットに手をやって財布がない、と言い出す。

「……財布がない。誰かに盗られたんだ!」

 しかし実際は、ちゃんとクローゼットの中にある、スーツのポケットにある。その事を知っている母がクローゼットに連れて行って其処にあることを提示すると、満面の笑みを浮かべて食事を続ける。しかし、また数分経つとポケットを探り出して……その繰り返し。此処で漸く異変を感じ取った母が病院に連れて行ったが……事は何もかもが遅すぎた。病気は進行していた。

 アルツハイマーだった。

 仕事に徹していた夏緒の父は仕事に蝕まれていた。

 その頃には既に仕事は手につかなくなっており、会社はクビになっていた。

 変わり果てていく父。

 夏緒はその一部始終を目の当たりにする。

 こんなことがあった。

 父が窓から外を見ているから、夏緒は声をかけた。

「お父さん」

 父は不思議そうな顔をして振り向いた。

「お天気が良くて、良かったね!」

 微笑みかける夏緒。父は夏緒の顔をじっと見る。ただ、見る。

 それでも根気強く夏緒は話しかける。

「この間ね? 学校で……」

「あの……」

 話しかける夏緒の言葉を遮って父が訊く。

「どちら様ですか?」

 限りなく純粋な瞳と、問い。夏緒は愕然とした。


 忘れられた。


 彼の人生から、夏緒の記憶は抜け落ちてしまった。

「あ……えーっと……」

 夏緒は引きつった笑顔を浮かべた。

「私はあなたの友達です」

 娘……とは言えなかった。忘れられてしまったことを認めるような気がして。

「……そうだったんだ」

 父はにっこり笑った。しかしそれ以上の興味を失ったようで、窓の外にまた、視線を向けた。

 夏緒は居たたまれなくなって自分の部屋に戻った。

 そして、泣いた。

 大切な人の記憶から、自分に関する総てが零れ落ちた。それを考えると涙しか滲み出て来なかった。彼の記憶から零れ落ちてしまった自分と、涙を重ね合わせて唯泣いた。

 忘れる、忘れられるというのがこれほどまでの恐怖と成り得るなんて思いもよらなかった。当たり前のものを当たり前と言わない恐怖。自分の娘でさえその存在を忘れる。

 記憶から消え去る以上の恐怖哀しみがあるとは夏緒には思えなかった。


* * *


 それから、暫くもしない内に父は死んだ。

 父の看病と、パートの仕事疲れからつい眠ってしまった母の隙をついて、父は家から出てしまった。

 当たり前のことを当たり前と分からないから、彼は車道を歩いた。


 そして。


 母は自分を責めた。

 疲れていたとは言え、目を離してしまった自分を悔いた。看病の疲れもあったのだろう、彼女は心を病んでいた。

 それは夏緒とて同じことだった。心身ともに限界に近かった。

 夏緒は母を抱きしめて泣いた。いつの頃からかしなくなった、感情の任せるままに泣くこと。父が死んだその日、夏緒は我を忘れて泣いた。

 心を病んでいた母は戸惑った。そして、小さな子供のように泣く自分の娘を見て、泣いた。自分の愚かしさを嘆いて。

 まだ、自分には残された宝がある。夏緒という宝が。

 二人は相手さえも自分の身体の一部にしてしまうかのように強く抱きしめ合い、泣いた。

 次の日から二人は変わった。

 母は、夏緒を守るという意志を強く持ち、夏緒もまた、母を守り、大切にいるという意志を持って立ち直った。

「夏緒……母さんこれからは強くなる。あなたがいるから」

 夏緒の目を見て言う。

「お母さん……私立派な大人になる。そして早く楽させてあげるね」

 二人は笑った。ただ互いが其処にいるというだけで幸せだった。


* * *


 四十九日を終え、いよいよ身の周りの整理も終わり、普段の生活が戻ろうとした時、それは見つかった。

「夏緒」

 父の部屋を整理していた母がリビングに下りてきて、夏緒の名を呼んだ。

 夏緒が振り返ると、母は泣いていた。

「夏緒、お父さんからの手紙だよ……」

 泣いていたけど、でも笑顔で、母はその手紙を渡した。封筒には「夏緒へ」と書かれていた。

 受け取って夏緒は、封筒のその文字を見て自然と涙が零れた。まだ父が元気だった頃の文字だったから。

 夏緒は慌てて封を切り、中から手紙を出した。広げて読み進める内に涙は禁じえずとめどもなく流れた。

「夏緒へ

 夏緒、お元気ですか? 君がこれを読んで居るということは、お父さんはもういないのでしょう。だってこの手紙を隠している場所はお父さんの本当に秘密の場所でお母さんも僕がいなくなって、部屋の整理をしなければ分からない場所だからね。

 夏緒、僕は自分が怖い。ついさっきまで覚えていたことが思い出せないんだ。日々一刻と今までのことを忘れている。それがわかるんだ。このままではやがて君や、お母さんのことさえ忘れそうで怖いよ。

 だから、まだ覚えている内に、夏緒に伝えたいこと、伝えなければならないことをこうして手紙にしたためておこうと思う。

 夏緒、お父さんまだ君に話してなかったね。君の名前のこと。

 夏緒って漢字は夏の緒と書く。それはね、それは僕ら三人家族が始まったことを意味してるんだよ。

 僕とお母さんは二人で幸せだった。幸せだったけどまだ最高じゃなかった。子供が欲しかったんだ。

 やがて願いは通じ、君が生まれた。夏も盛りで、本当に暑い日だった。お母さんが分娩室に入っていく時僕もついていってね、お母さんの手を握りながら二人でお祈りしたんだ。元気な子供が生まれますように、ってね。

 お母さんは苦しそうにするもんだから、僕なんて気が動転しちゃって。看護婦さんに外で待ってるように言われたんだ。情けないよなぁ、父さん」

 父の笑顔が浮かぶ。あの照れくさそうに笑う顔が。

「で、暫くすると元気な泣き声が聞こえてきたんだ。君の声だった。二人が願った通り、元気な泣き声だったよ。

 お母さんと君が中から出てきて、僕は泣いたよ。久しぶりに大声あげて。みっとも無かっただろうなぁ傍から見ると。でも君が生まれた喜びを、泣く以外に表現する能力がなかったもんだから……。

 君の名前はお父さんがつけた。お母さんの言った言葉がきっかけだった。まだ覚えてる、大丈夫。

『今日から始まりなんだね、私たち三人家族の始まりなんだ……』そう言ってやっぱり泣いてるお母さんの言葉を、父さんが君の名前にした。
『緒』って漢字は『いとぐち』とも言う。そしていとぐちとは物事の始まりのことを指す。つまり君が生まれて三人家族になって、初めて僕たちの幸せは成立し得たんだ。だから、三人の始まりに当たる君にはその意味を乗せたかった。

 夏は君が生まれた月だし、お母さんと僕は君の元気な泣き声が本当に夏を思わせていたから、だから夏緒。夏に三人の家族になり、本物の幸せが始まった。だから、夏緒。だから君の名前は夏緒なんだよ」

 夏緒は愛しさがその胸に溢れているのを感じた。こんなにも、愛されていた。

 名前一つにしても父の、母の際限なき愛情が溢れている。 どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。名前というものが当たり前過ぎて気がつかずにいた。

「夏緒、君が生まれてもう十五年という歳月が過ぎました。あと一年で結婚すら出来てしまう。君は元気に育ってくれた。僕ら二人が望んだように。

 君は残りの人生年老いていくお母さんに、君の幸せな姿を見せてあげて欲しい。

 出来ることなら僕も君の素敵な姿を見たかった。純白のウェディングドレスを身に纏い幸せそうに笑う君を。

 僕はもう長くないだろう。君のこれからを見届けることは出来ない。だけど、せめてお母さんには見せてあげて。

 最後に、もう一言だけ言わせて欲しい。

 夏緒、お父さんは君に出会えて良かった。君が僕の子供として生きてくれる事。それが僕の人生の一番の宝物だよ。

 夏緒、どうか幸せに」

 夏緒は声をあげて泣いた。もう立っていることも出来ない。だから、床にへたり込んで泣いた。

 母はそんな夏緒を抱きしめた。夏緒は母の温かさに心安らぐのを感じながら、胸に抱いた父からの手紙にも同様の温かさを感じていた。


 チリン、チリン……。


 涼やかな音色だった。

 風鈴はただ、涼しげな音を奏でる。


 チリン、チリン……。


 それは二人の耳に、どう響いたのだろうか。

 

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2006年08月05日:デザイン改修