その瞳に映るもの



 永い永い春休みが終わって、久しぶりに見たあなたの横顔は、既に私と言う存在そのものを忘れているか、さもなければ初めから見知らぬ他人であったかのような表情を浮かべ、私の居場所だった右腕はもう他の人の居場所になっていた。

 食堂の大きなテーブル。窓際に座る私は、遠く目の端に映るあなたと、あなたに寄り添う誰かを努めて見まいとして、二人の居る方に頬杖をつき、窓の外で舞い散る桜の花びら の、その行方を一片ずつ丹念に見守る。けれどこんな雑然とした音の洪水の中でも、私の耳は尚あなたの声を選択して聞き取ってしまう。

 きっと耳を手で塞いでも、指の間をすり抜けて私の鼓膜を震わせるのだろう。それならば初めから、買ったばかりのオーディオプレーヤーのイヤホンを装着すれば良い。それが最善の策だと頭では解っているのに、身体は勝手にあなたの声ばかりを欲して聴き入っている。空白に変わった時間を紛らわすように買ったいくつものアルバムも、結局あなたの声を記憶から消し去ってはくれなかった。それどころか、たまに流れる切ない旋律は、あなたの別れの言葉を再生したりもした。

 地球なんて大それたことは言わないけど、両手を精一杯伸ばして届く範囲の狭い世界でさえ、私を救う素振りすら見せてはくれなかった。

 どうしようもなく惨めだった。
 
「おはよ」

 不意に隣の席にかけて来る誰かの存在を体感する。頬杖を外して顔を上げれば、見知った顔であることを確認する。

「あ……、くぅちゃん」

 くぅちゃんはフレンチカレーが乗ったトレーをテーブルに置きながら渋い顔を覗かせた。その顔を、その姿を視界の限りに収めて、無理矢理耳に彼の声を選択させる。

「犬みたいじゃん、やめよーよ」

 ため息交じりに言いながら、少し乱暴に座るくぅちゃん。

 さっきまで私の総てを独占していたあなたの姿も声も、既にない。こんなにも簡単に、あなたが私から無くなって行くことを知って驚きながらも、多少はあなたを考えなくても良い時間が取れたことを嬉しく思い、また辛くも感じる。だって何の苦労もなくあなたを忘れたら、それは私を一月もしない内に忘れたあなたと何一つ変わらないということになる。

 それだけは厭。

「ごめんね、ソラくん」

 くぅちゃんの本当の名前は宮川みやがわ そら。「そら」だからくぅちゃん。可愛いと思うんだけどな、この愛称。
 
「……まぁ、良いんだけどな」

 さっきまで私に投げかけていた視線を外して、フレンチカレーを一口頬張るくぅちゃん。

 そういえば、あなたも良くフレンチカレーを食べていた。

「聞いたよ」

 くぅちゃんは言い辛そうに口を開いた。私はきっとそのことを話すんだろうな、と予想していたから、動揺せず普通で居られた。少なくとも、表面上は大丈夫だったと思う。少しだけ瞬きが不自然だったかもしれないけど、きっとくぅちゃんは気付いていない。

「大丈夫だよ」

 だけど次の一言を聞いてしまったら、もう一度あの辛さを体感しそうで、不自然なのは解っていながらもそれが恐くて、くぅちゃんの口がまた開く前に言葉を遮った。

「……そうは見えないけどな」

 くぅちゃんは呟くように言うと、セットでついて来るコンソメスープを一口啜った。

 私の心の内側を見透かされたようで、でも気持ちまでは理解してくれてなくて、冷たいその言葉に傷がまた、チクリと疼いた。

「大丈夫だよ」

 繰り返すけど、説得力の欠片もなくて、そのことを自分でも解っているから余計に力強さも感じられず、続けて言おうとしていた言葉も総て飲み込んでしまう。

 そうして項垂れてしまった私を、くぅちゃんはそれ以上何も言わず、ただ頭を撫でてくれた。あなたより少し硬い掌が、却って私に安心感を与えてくれる。

「ありがと」

 くぅちゃんの掌が離れて、私はお礼を良いながら頭を上げた。あなたの掌を少し思い出して辛くなったけれど、くぅちゃんの掌から感じる、くぅちゃんの体温が今は嬉しくて、引き攣った笑顔を浮かべているのは自分でも解ったけれど、それでも心から笑うことが出来た。
 
 
 だからくぅちゃんは、漸く笑ってくれた。
 
 だけどくぅちゃんも、何故だか上手く笑えていなかった。
 
 
 不思議に思ってその表情を見ていると、不意に立ち上がるあなたの姿が視界を掠めた。

 迂闊だった。忘れられてなどいなかった。

 しかしひょっとしたら私は、この不安を感じながらも、心の何処かではあなたの姿が目に映ることを期待していたのかもしれない。

 あなたは口元に涼しげな微笑を浮かべ、癖のない髪を揺らし、私の知らない人に手を差し伸べた。その人はすがるように手を握ると、次の瞬間にはあなたの右腕に抱きついた。

 その一瞬は私に、言いようのない孤独を植えつける。

 あの日々を思い出す。

 別れの予感なんて微塵も感じることはなく、程好い硬さを保ったあなたの右腕は、抱きしめると確かな居場所を、支えられていると言う幻想を抱かせた。唯そうしているだけで幸福を実感出来た。別れてしまった今だって、あなたの腕の硬さやぬくもりは私の身体に染み込んでいて拭い去ることが出来ない。

 あなたは私が髪を切ると、必ず気付いてくれた。少しヘアカラーのトーンを落としただけでも、前髪を2cmしか切ってない時だって、あなたは決まって左手で私の髪に触れ、感触を楽しむと一言褒めてくれた。それはその瞬間、最も欲しいと希う言葉だった。

 私が一緒に居たいと思う時、あなたは何時だって傍に居てくれた。それが自然で、そうあることが普通で、どうしようもなく当たり前のことだったのに、今は隣に居てくれない。自分の意志とは関係なく、あなたを視界に映してしまう位、たった今こんなにも傍に居て欲しいと思っているのに。

 あの頃は隠していたはずの気持ちまで汲み取ってくれていたあなたも、これからはその魔法を、私の為に遣ってはくれない。

 あなたのことを思うと、いつも幸せな気持ちで胸を満たすことが出来ていたのに、もう虚しさや疑問しか浮かばない。

 遠く、ぼやけてしまったあなたの横顔は、既に私と言う存在そのものを忘れているか、さもなければ初めから見知らぬ他人であったかのような表情を浮かべている。

 そんな顔をされる位、そんな態度を見せる位、私はあなたにとって無価値だったのだろうか。あなたと過ごした日々は、なかったことにしたい位意味のない時間だったのだろうか。あなたを愛したと言う真実さえ葬り去られてしまうのだろうか。あなたが愛してくれたと言う記憶さえ私に残してくれないのだろうか。それすらも私は赦されないのだろうか。

 一体何がいけなかったの? 私にはその理由すら知る権利はない。願わくば、と唱える程愚かではないけれど、出来ることなら、どうすれば良かったのか知りたいと思う。理由を知れば、或いはあなたのことを忘れられるかもしれないのに。

「拭きなよ」

 不意に、くぅちゃんが手を伸ばす。綺麗に畳まれたハンカチが差し出されていた。くぅちゃんの顔に視線を向けると、どうしてだろう、くぅちゃんは私と顔を合わせてくれない。

「どうして?」

 ハンカチを受け取りつつ、更に問う。するとくぅちゃんは、やはりこちらを振り向くことなく、ぽつりと呟いた。

「だって、泣いてるじゃないか」

 辛そうなくぅちゃんの声色と、予期せぬ答えに戸惑いながら、私は恐る恐る目元に指先を持っていく。そうして初めて、涙が頬を伝い落ちている事実を知った。

 自分でも理解出来ない現状に、涙を拭くことすら出来ない。だから私は、受け取ったハンカチを目元に持っていくことも出来ない。涙で歪む視界の限りに、何故だろう、もう居ないはずのあなたの姿が浮かんだ。

「なぁ」

 不意に、くぅちゃんは苛立たしげな声を上げた。私は、嘗て聞いたことのないくぅちゃんの声色に、覚えず戦慄する。

「何時までそうしてるつもり?」

 頬を伝い落ちた雫が、胸元を濡らした。一つ二つと心を穿つように涙がまた私へと還って来る。

「……あ、ごめんね。折角ハンカチ貸してくれたのに。借りるね、ありがとう」

 私はくぅちゃんが、そのことで怒っているのかな、と思い立ってハンカチを目元にやり、拭う。明日洗濯して、返さなきゃ。

「違う」

 くぅちゃんは言いつつ、涙を拭う私の右手の手首を掴んだ。唐突に禁じられた腕をどうすることも出来ず、ただ驚きを以ってくぅちゃんを見つめる。

「泣いてる事を責めてるんじゃない」

 語気が強くなるくぅちゃん。真剣な目に、手首に感じる圧力に、私は返す言葉を見つけあぐねてしまう。

「いつまでも目で追ってるなんて、悲し過ぎるだろ」

 くぅちゃんは私の目を見てはっきりと言った。そして私はと言えば、口に出して言われて初めて、何もかもがくぅちゃんには解っていたのだ、ということを今更ながらに悟った。

 だからくぅちゃんは、上手に笑えなかったんだ。だからくぅちゃんは、視線を反らしていたんだ。だけどくぅちゃんは、何故辛そうなのだろう……。

「もう元通りにはならない。見てたなら解るだろ。忘れろよ」

 くぅちゃんはあなたが座っていた席を視線でさして言い放つ。きっとそれは、終わった恋を未だ引きずる私を思いやっての言葉。それが頭では理解出来ていても、身体が強烈な反発を起こす。それは理性では押さえ付けられない強い衝動。

「そんなの、ソラくんには関係ないよ。放っといて」

 私は上半身を翻してくぅちゃんに背を向ける。もうこれ以上干渉しないで、と牽制したつもりだった。どうしようもなくて、どうにもならないことだなんて、くぅちゃんに言われなくても私が一番理解している。

「放っておけるわけないだろ、こっち向けよ」

 なのにくぅちゃんは、それでも私を開放してはくれない。私は心のパーソナルスペースに踏み込まれたことで、我を失い、自分自身を制御出来なくなってしまう。私はもう一度振り向いて、くぅちゃんの言葉に反論する。

「忘れたいよ! 忘れられるなら疾っくに忘れてる! でも出来ないんだもん、何処に行っても何をしても、自分の意思とは関係なく思い出される風景がどんなに寂しいか、空くんに解るの?! 解らないでしょ? 解らないなら口出さないで!」

 自分の意志とは関係のない所で吐露される心の欠片。問われてもいないことを無意識に言葉にするにつれ、本当の自分の気持ちに思い至る。だけど、だからと言ってそれはくぅちゃんにぶつけて良い言葉じゃない。例えばくぅちゃんの言葉が、どんなに私を卑屈にさせたとしても。解っている。解っているけど、もう取り返しはつかない。

「口出さないでいられるかよ、これで!」

 くぅちゃんは私の投げつけた声より一層大きい声で怒鳴り返してくる。正直、こんなに感情的な声を上げるくぅちゃんは初めて見るから戸惑ってしまうけど、言葉はそんな気持ちに関係なく溢れていく。

「何で? 何で放っておいてくれないの? 私の気持ちなんて解らないくせに!」

 私が言い終えるか否かの間に、くぅちゃんは唐突に私の両肩を掴んだ。込められた強い力に言葉を失う。

「目の前で泣いてる人を、お前なら放っとけるのかよ?」

 くぅちゃんは語気を荒げたりせず、ただ静かに告げた。包み込まれるようなくぅちゃんの広い心と温かい言葉に、感情的になっていた私は唐突に冷静さを取り戻し、それまでの私を思い出して急に恥ずかしくなる。

「……お前なら、そんなこと出来ないだろ?」

 空気を震わせる事さえ出来なくて、私はただ頷いて意思を告げる。

「だと思った」

 短く告げると、くぅちゃんは小さく笑った。それはまだ、やはり誰の目から見ても無理して作った表情だった。
 
「これからもし、またそうやってアイツを目に映してしまいそうになったら、いつでも言ってよ。俺で良ければ邪魔してやるからさ」
 
 くぅちゃんはそれだけ言い残すと、殆ど手をつけていないフレンチカレーの乗ったトレーを持って、席を立った。それから私を振り返ることなく、食器返却口で食堂のおばちゃんと談笑を交わすと、どこかに行ってしまった。

 私はその背中から、どうしても視線を外せなくなっていた。
 
 
* * *
 
 
 私たちのそんなやり取りを見ていた学内の友人たちは、皆聞きづらそうにしながら、不躾に私たちの「その後」を問い詰めた。本音と建前の使い分けが上手いのか下手なのか、私には皆目検討もつかない。けれど確かに言えることは、皆が皆、単なる興味本位の詮索であったと言うことだけだ。私は人間関係の何たるかを少なからず心得ているから、笑って適当に誤魔化していた。

 例えばくぅちゃんのその言葉に、心の傷を大なり小なり癒して貰ったからと言って、付き合い始めるなんてロマンチックな出来事は起こらない。

 そんな単純明白なことを彼女たちは解らないらしい。

「よお、遅くなったな」

 不意に声をかけられる。

 待ち合わせの時間を十五分も遅れているのに、くぅちゃんはその言葉くらい悪びれる様子もなく、飄々と歩いてやって来た。

「遅いよ」

 私は非難の声を上げる。だけどくぅちゃんは、悪戯が成功した子供みたいな、あどけない笑顔で「ごめんな」と言うだけだった。そんな風だから、私は次の瞬間にはくぅちゃんを許してしまう。

 くぅちゃんは私の左側に並びかけると、立ち止まることなく歩き出す。何処までもマイペースな人なんだと、最近になって知った。

 最近は、というよりあの日から、私たちは何となく一緒に居ることが多くなった。なんとなく、くぅちゃんの傍に居ると、落ち着くことが出来る。くぅちゃんは何気ない仕草で、しかし確実に私の視界を埋め尽くす。

 今も隣で、気を遣って車道側を歩いたり私の歩幅に合わせたり、大好きな煙草をずっと我慢したり。何となくそわそわしている手とか仕草が、男くさい外見とは裏腹に、ちょっと可愛い。

 伸ばし始めた髭も、なんだか不潔なイメージしかないから剃れば、と言い続けたけど、結局剃られることもなくて、でも私の言葉を気にしてか長さを揃えている分だけ、清潔感を感じる。寧ろ顔のラインが綺麗に見えて、それはそれでアリかな、なんて思ってしまう自分もいる。

 横断歩道を渡る時、何となくくぅちゃんの歩調に違和感を感じたら、足元を見ればその不思議が解ける。そんな時はいつだって、白い所ばかり踏んで歩いている。その姿をちょっと後ろから見て歩くのが、最近の密かな愉しみ。

 好きな音楽も、私とは全然違う。くぅちゃんは主に洋楽を嗜んでいて、邦楽は仲間内でカラオケに行く時、盛り上がれるようにと話題の新曲をチェックする程度。私は歌詞の意味とか味わいたいから、難しい英語はちょっと苦手だったりする。だから一緒にタワーレコードに行くと、自然と別々に行動してたりする。けど私もくぅちゃんも映画は好きで、最後には二人とも自然にDVDのコーナーで再会してしまう。

 そしてくぅちゃんは、ブラックコーヒーの味わい深さを理解しない。ミルクも砂糖も、常識の範囲を逸脱して注ぐ。銘柄のこだわりはなく、皆同じ味だと言う。それにハンバーグとかコロッケとか、小さい子が好んで食べるようなメニューがひどくお気に入り。こんなこと言うと本人は気分を悪くする だろうから言わないけど、間違いなく味覚はお子様。見た目は実年齢より随分大人びているだけ、そのギャップは反則だと思う。

 そんな風にくぅちゃんを見て、見届けて、私は私自身すらも少しずつ変わっていることに思い至る。見放されていると思っていたけれど、こんなにも近くで支えてくれる誰かが居たことに、私は心から感謝する。

 くぅちゃんと居ると、時間が経つのも早い。最近は特にそうだ。さっき遅刻して来たばかりだと思っていたのに、今ではあんなに高かった太陽も姿を消して、高層ビルの窓から漏れる光は半ば星の瞬きと錯覚させる位、数を数え切れない。

 段々と陽気になっていた風も、あの頃の冷たい空気を蘇らせていた。吐息が微かに熱を帯びて、白く色づいていた。

「寒い?」

 くぅちゃんも風を染めながら問う。

「だいじょうぶ」

 くぅちゃんの問い掛けるその声色が、包み込んでくれそうな力強さと優しさを感じさせてくれたから、何となく子供みたいに答えてみた。見上げていたくぅちゃんの顔が、とても優しくんだ。

 そして私はもう、くぅちゃんの腕の中に居た。

 一瞬何が起こったのか解らなかったけど、頬を寄せたくぅちゃんの胸の鼓動が早鐘のように鳴り続けるから、こうなる過程が後を追うように、視覚へと刻み込まれる。

 柔らかく抱き留められる頭。強く抱き締められる背中。鼓動。体温と香り立つ香水の言葉無き主張。

 私は今、くぅちゃんに抱き寄せられている。

「どうしたの?」

 私に響く、くぅちゃんの鼓動から耳を離すことが出来ず、しかし唐突なこの状況への戸惑いも消えなくて、消せなくて問い掛けた。もしかしたらくぅちゃんと私の鼓動の音が大き過ぎて、くぅちゃんに届く前に消え入ってしまうかもしれないと不安になる程か細い声だった。

「なぁ、もう言って良いかな」

 くぅちゃんの意思は声と言うより、身体を伝う振動そのもので言葉の意味総てを汲み取らせた。それは雲の切れ間から時折差し込む陽光の、何気ない芸術性にひどく似ていた。

「もう我慢出来そうにないんだけど」

 その腕に込められる力が増していくのを感じる。こんなにも近くに居るから、微かにくぅちゃんが震えていると言う事実にさえ、気付いてしまう。そしてそれは、この沈黙よりも饒舌にくぅちゃんの気持ちを語っていた。頭上の物言わぬ唇は、却って次の言葉を 思い巡らせ、想像は際限を知らず広がって行く。そうして行き急ぐ旅人の足取りにも似たくぅちゃんの胸の高鳴りや、指先の戸惑いが、やがて霧散する。

「好きなんだ」

 それは通り雨のような唐突さと激しさを併せ持ちながらも、雨の雫が地を穿つ瞬間の静寂を思わせる、いわば独白のような告白だった。

「伝えたくて仕方なかった、けど言えなかった。お前が探してるのはいつだって俺じゃなかったから」

 私は既にくぅちゃんに返す言葉を失っている。

「たまに二人で話してる時だって、視線をさ迷わせてた。ずっと辛かった」

 その言葉に心が痛む。確かに私は、あなたの姿をいつも視界に収めようと目で追っていた。その習慣は別れた後も、もしかしたら明日だって明後日だって、続いているのかもしれない。

 不意に引き離される身体。くぅちゃんは私の両肩を掴み、顔を覗き込んで来る。茶色がかった瞳は私を映し、丁寧に整えられた眉は不安げな形を作る。

「もっとしっかり俺の目を見てくれ」

 切実なくぅちゃんの声色が、その瞳を真っ直ぐ見据えさせる。力強い眼差しは、もう私の視線を迷わせない。

「今、何が見える?」

 意図の見えない問い掛けに言葉を探しあぐねてしまう。だから端的に「ソラくんの目」と答える。それ以上に十全な回答を私は持ち合わせていない。

「違う。もっと奥だ」

 くぅちゃんはとても真剣に、しかし不可解なことを言う。目に奥も手前もない。ないとは思うけど、でもくぅちゃんの掌の圧力と説得の言葉に反論する余地もなく、未知の領域を探るように、瞳を覗き込む。

 間もなく私は、其処に私を見た。

 まるで鏡を覗き込んでいるかのような錯覚すら覚える。

「ちゃんと映ってるだろ」

 くぅちゃんは私がその事実に気付いたということを察してか、安堵のため息を吐き出すように、呟いた。

「解ってくれるだろ、この意味を。 いつもその瞳にあいつを映してたお前なら」

 それは間違いなく「愛しさ」だと思う。唯くぅちゃんが言うように、あなたの姿を意図的に見ていたわけじゃない。自発的ではなく、或いは外的要因もなく、唯無意識に映してしまっていた。過程があって結論があったわけじゃない。結果としてあなたを見ていただけだ。見たいから見ていたわけじゃない。あなたが居るから見ずには居られなかった。あなたが居るのではないかと探さずには居られなかった。

「好きってそういうことだろ? 何時だって近くに居ないか探してしまう。もし傍に居ると解ったら、見続けずには居られない。視界の片隅で良いから、映して居たい。お前だってそうだっただろ?」

 言葉にして同意するまでもない、そう思っていることすら、この状況下においてはくぅちゃんにも全部伝わっている。

「好きなんだ。こんなにも近くで見つめ合ってると、頭がおかしくなりそうだし、胸が高鳴って息苦しい。視線なんて外せるわけもない。……これだけじゃ伝わらないか? 網膜に刻み込んでしまうくらいずっと見てた、これだけじゃお前を心底好きな気持ち、解って貰えないか?」

 解らない訳が無い。くぅちゃんはずるい。こんなにも傍に居て、こんなにも安らげて、こんなにも分かり合える人を前に、告げられる答えなんてたった一つしかない。

「付き合ってくれ」

 たった一つしかない答え。その芽生えは、本当はずっと前から意識していた。だけど見て見ぬふりをしていた。ちょっと優しくされて、すぐに好きになってしまったことを認めたら、あなたに対して抱いていた思いやそれまでの日々総てを否定してしまうような気がして、とても怖かった。

 だけどくぅちゃんと日々を重ねるにつれて、あなたと歩いた街の景色を塗り替えて、思い出を脱ぎ捨てて、これからの展望を思い描くことでそんな罪悪感も次第に薄れて行った。

 だから、と言う訳じゃないけれど。

「……良いよ」

 はっきりと、自分の意志を言葉にする。

「……マジ?」

「マジ」

 短く応えて、笑ってみせた。

 少しの沈黙があって、くぅちゃんはすごい笑顔を浮かべると、また痛いくらいにきつく私の身体を抱き締めた。

「大好きだ!」

 くぅちゃんの肩越しに見える、周りに居た人がその大きな告白を聞いて、目を丸くしながら私たちのことを見ている。だけどそんなことは、今の私たちにとって些細なことでしかない。

「知ってるよ」

 だから私は、悠々と言える。
 
「だって私は、その瞳に映ってるんだもの」
 


 

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