だからそれを選ばないで欲しい



 渋谷駅のホームで、次の電車を待つ列の先頭に立ち、なにもかんがえずに線路を見ていた。

 線路にはペットボトルが落ちていたり、鳥の糞が夥しい数をなして白く汚していたり、百円均一で買ったと思しき透明な傘が見るも無惨な姿で転がっている。

 ちょっと視線をあげれば広告の看板が整然と並び、目の前では下着姿のモデルがにっこりと微笑んでいた。

 心がなくなっている今、特に興味も湧かず、自然とまた俯いた。

 歩き煙草をする男が目の前を歩いていただとか、コンビニの店員の態度が横柄だったとか、自分ではない誰かのミスを必死に取り戻そうとするだとか……。とにかくたった今、この瞬間達が明日の自分を作るというのに、欲しい明日の自分を得るために必要なものが何一つ手に入らないこの腐れ切った環境にしがみついていなければ生きられない惨めだとか……、一つ一つあげていっても詮無いことだし、どうせこれまでも繰り返し体験して来たことだし体験して行くであろうことだし、気にしても仕方ないことばかりだけど、一番苛立たしいのは、うまく行かないことや努力や勇気が足りないことを、誰かや何かのせいにして被害者ぶってる自分の臆病や、それを自覚してなお焦燥に駆られるばかりで翻弄され続け、為すべきを為さないことを、やむを得ないと言い訳して、為さないことを選び続けていることだ。

 生きている意味があるのだろうか。

 何度となく繰り返す、魂からの根源的な質疑がまた、警鐘のように自身の中に鳴り響く。

 その度にこの生活が命の限りまで続くことを想像して絶望する。

 その未来は、言葉の響きから懸想するような昇る明るい兆しはなく、底の見えない深奥へ、実体なき何者かに引きずり込まれるような、抵抗出来ない束縛に支配されている。

 こんなもののために、この世に生を受けたのだろうか。


 季節柄、呼吸を忘れる程の冷たい風が吹き抜けて行く。

 いつだったか、線路に飛び込む人は計画してそうするのではなく、ふと思い至り飛び込んでしまうのだ等という話を読んだ記憶が脳裏に浮かぶ。

 思い浮かんで、見るともなしに見ていた縁を認識してみると、なるほど、このホームの縁取りはちょっとした思い付きで踏み越えてしまえる絶妙さを醸し出している。

 死は不可避だから、いつかはこの身体にも訪れるものだなんてこと、分かり切っているし、だけどそんなことばかり考えていたら絶望してしまうから、普段は目を逸らし続けるけれど、この赤茶けた色彩をどうしようもない線路の鉄や、環状線路の単調な反芻、汚れていても気にも留められない存在でも酷使される理不尽……。それらの要素に、無意識のうちに自分を重ねてしまうのかもしれない。

 茫漠とした悲しみが身体を支配する。

 溢れる人の気配や話し声がまさに今この身体を蔑んでいるのではないかという妄想が脳裏に充満し、人前であることも憚らず、涙が溢れて来る。

 一所懸命に力を込めて、落涙は避けるも目は水分に満ち、無力感に筋肉が脱力し、立ち尽くす他自分を保つ解答を見出だせない。

 もう足には力が入らない。

 だから誰か、この背中を押してくれないだろうか。

 死ぬことは怖い。死にたいけれど、死そのものはどうしようもなく怖いのだ。

 無力だから、死にたくても決断出来ない。それが苦しくて、酸素にすら溺れてしまいそうになる。

 だから早く、息苦しくなるより前に、早く楽にしてくれないだろうか。

 ふいに思考の深い闇に、似つかわしくない明るい声が差す。

 それはまるで思考の海底を照らさないけれど、話題の明暗程度は嗅ぎ取れる。

 どうやら背後で三人組の女性グループが話し込んでいるようだった。

 三者三様の華やかな話し声が鼓膜を震わせる。楽しげな話し声に恥も外聞もかなぐり捨てて縋りつきたくなる。

 だから何の罪も悪意もなく、ちょっとで良い。少し大袈裟に、その話の流れで構わないから、オーバーなリアクションで背中にぶつかってくれないだろうか。触れるくらいで構わない。

 そうしたら、線路に落ちてしまう口実が出来て、自分自身を殺めた罪で魂を汚すこともなく楽に終われるのに。

 無自覚に、深い溜め息が零れる。

 吐く息は白く、つまり熱を帯びていることを刹那的に示す。

 半ば灯火だ、と言葉が浮かんだ瞬間に、酸素が思ったように吸い込めなくなり、呼吸が苦しくて、浅く、間隔がどんどん短くなる気がする。

 また、漠然とした焦燥が身体を支配していく。

 叫び出したい衝動に、衝動が招く掻痒感に、神経も皮膚も、爪先から頭頂部に至るまでそれだけが全部に思えて、思考が繰り返しているのか散漫になっているのか、今何処にいてこれから何をすれば良いのかわからない、いやわかってる、まだ電車は来ていないのだから待っていれば良い。否、だけど今、何かを決めなければならないような、間もなくやってくるであろう電車を待つために? ホームの先頭で? しかし今知りもしない男が心中で私のことを罵りながら目の前を足早に通り過ぎて行ったから、きっと間違いなく私の立ち位置が悪くだから私は此処に立っていてはいけない―――?

 混濁した奔流にたゆとう意識を、俄に射抜くこれは、視線。不躾な、視線。

 冷たい汗がつー……、と背筋を滴る怖気に顔をあげると、その視線の先には駅員がいた。

 帽子を直す仕草の延長……その見せかけで既に視線はこちらから外れているが、間違いない、あの視線の熱量や思念の残滓は未だこちらに向かって残っているし、彼の緊張が包み隠せず溢れ伝わってくる。

 今、何を考えていた?

 自分の身体中の筋肉が強張って、手のひらや脇や額にも、びっしりと冷や汗をかいていることに、ことここに至って気が付いた。

 自由の利かない指先を騙し騙し、さり気なさを装わせ額を拭い、またポケットに手を突っ込んで、内側の布で今しがた拭った額や手のひらの汗をまた拭う。

 あの視線の意味は間違いない、確定的に疑惑に満ちていた。

 言葉も視線も交わす必要すらなく意思は疎通する。空間に残る、向けられていた視線や、吸気と呼気の不自然な間隔があいたあの息遣い。祭りのあとのように、そういうことが「あった」のだというあの感覚。

 あの感覚が私達の間に横たわっていた。

 死について考えることは度々あったけれど「まさか死ぬのではないか?」と嫌疑をかけられたことはかつてなかった。

 でも一方で、今本当に死んでいたかもしれないと感じている自分もいた。

 もしあの刺すような視線がなければ、立ち暗みで膝から崩れるような形で、あの縁の向こう側に頽れていたかもしれない。

 間もなく電車が参ります、と告げる機械的なアナウンスが駅構内に響き、いつの間にか空想していた見知らぬ人々の罵詈雑言の幻聴を相殺してくれた。

 黄色い線の内側と外側は、今や明確な境界線となって目の前に広がっていた。

 気にして見てみると、僅かもないと思っていた黄色い線の外側とその縁までの距離は十分に取られているように感じた。

 思い返すと今まで何度となく、特別な意味なんて抱くことなく、その隘路を足早に駆け抜ける瞬間が私にも確かにあった。

 だけど、そのいずれの瞬間も、落ちるとはゆめゆめ思わなかった。

 だからなのか、ととてもシンプルに理解が出来た。

 やがて地響きを伴いながら、間断なく近付く電車が見えて来る。

 その巨大な車体の先頭は緩やかな減速で、しかし次の瞬間には先ほどまで見つめていた場所に差し掛かると、それから数瞬の間もなく通り過ぎて行く。

 重い車体が空想の自分の身体の上を通り過ぎて行く。

 ……身体を分断されるというのはどんな感覚なのだろうか。そもそもその感覚は、鉄の塊が肉体を破壊する速度より早く知覚されるのだろうか。

 空想の中で、自分の金切り声を再生しかけて、そうではない、違うのだと意識的に頭を振って掻き消した。

 私はそれを、選ばないのだ。

 乗車口が列の一列分程オーバーランして到着する。その一歩分の齟齬を、私はいつものように帳尻を合わせて扉が開くのを待つ。

 鈍い頭痛が浮かんでくる、今はまだ遠い憂鬱を押し殺しながら、窓越しに車内を伺えば、色々な顔や背中が見える。

 笑顔も疲労も無表情もすべて、生きている。

 乗車口が開き、それぞれの戸口で待ち構えていた乗客たちが一斉に改札に向かって歩き出す。

 今すれ違ったあの人やその人は、これからどんなことをするのだろうか。

 やがて人波が途切れ、私は決して後ろに並ぶ人達の不興を買わないよう、効率良く車内に足を伸ばす。踏み越えた、最早落ちようもない奈落に数瞬視線を落とせば、そこにはもう、ある種の魅力的な絶望等なく単なる線路そのものが顔を覗かせているばかりだった。

 車内は軽く込み合っていた。座席は疎らに空いているが、間もなく埋まるだろう。

 吊革を掴み、窓越しにあの駅員を見れば、もう私に興味等ないようで、寧ろ発車間際の駆け込み客を牽制するようにホイッスルを吹いていた。

 死を選びそうな程に差し迫っていた私の非日常も、彼にして見れば単なる日常になるのだろうか。

 一体どれ程の死相を見て、予感したり確信したり、食い止めたり食い止められなかったりしたのだろうか。

 或いは思い過ごしで良かったと思ったりするのだろうか。

 熟と廻る思考の覚束ぬ中、私は無自覚に、駅員に浅く黙礼していた。

 ドアが細心の注意を払いながら閉まりかけ、危険を察知したのかまた開き、そしてまた閉まる。

 そんなありふれた光景を目にして、しかし初めてそれは顔も名前も知らない運転手が、会ったことも話したこともない見知らぬ誰かを思いやった結果なのだと思い至り、孤独と悪意しか溢れていないと思っていた世界がきらめいて見えた。

 優先席では金髪頭の見るからに柄の悪い若者が、老女に進んで席を譲り「ありがとう」と微笑みかけられて照れているようだった。

 そしてその光景を見た誰もが微かにしかしはっきりと笑顔を浮かべていた。

 生きていたから手放したいと思った。しかし手放さなかったから生きている今が素晴らしいと思った。

 きっと明日には何もかも忘れて、また我慢ならないことが蓄積して、終えざるを得ないと迷うことがあるのだろう。いや、そんなことばかりかもしれない。

 それでも私は、まだこの世界に残っているだろうと確かに予感した。


 

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2011年11月12日:初出
2011年11月11日:完成