その墓標にあなたの名を刻む



 幼少期、一人っ子で引っ込み思案だった私は、家庭環境ともあいまって(幼少期を過ごした実家はどが付く程の田舎の更に山奥だった)、友達も作ることが出来ず、一人遊びに興じる他なく気が付くといつの間にやら、逞しい妄想力を鍛えあげて来たようで。

 チラリ、と手元の物を見る。

 その結末がご覧の有様というわけ。

 包装が凝りに凝った掌サイズの小箱。淡いピンク色の紙の上に、ほんのりと霞んで浮かぶハートがプリントされた包装紙に包まれ、レースのひらひらを思わせるリボンが対角線上に平行に並び、一方は蝶結びで括られている。

 所謂バレンタインのチョコレートで。行き場をなくした、もっと具体的に言えば突き返されたチョコレートである……。

 帰り道、もう幾度となくこぼした溜め息がまた一つ、白く色付いて浮かんでは雪に混じり、暗闇に消えて行く。

 今日はホワイトクリスマスならぬ、ホワイトバレンタインデーという、バレンタインデーなのかホワイトデーなのかクリスマスなのかハッキリしない一日だったのだ。

 四半世紀すら生きていないこの身ながら、なかなかに珍しい一日だったと思う。

 だから今朝なんてものすごくテンションが上がって、絶対この恋は神様に応援されていて上手く行く定めのもとにあるんだなんて妄想を爆発させて、この勢いの増しているうちにと、大切に温めて来たこの恋に新しいスタートを切るはずだった。

 所詮総ては妄想の中での絵空事だったということ。

 薄く雪が積もって視界は悪い傘越しに、未だ降り注ぐ雪を見つめ、ストレスを肥やす。

 素敵な夜になるはずだったホワイトバレンタインデーも、私にとってはただ足場が悪くて家に帰り着く時間が倍以上になって煩わしいだけの忌々しい天気以外の何ものでもなかった。

 私は無言で、ただし周りに人がいないことを確認して、雪で重くなった傘を左右に振った。

 連日のチョコレート調理の重労働とも重なって、肩凝りに拍車がかかるのはいただけない。よってこの帰り道、こまめに雪を振り落としている。

 ふわふわしている雪の見掛けに寄らない重量が傘を振る毎に落ちてなくなっていく。

 ……上手く行かないシーンもちゃんと妄想してた。何パターンも。

 妄想の中では成就しなかった瞬間に、天災で不幸にも決壊してしまったダムの如く涙は溢れ、止めどもなく流れるだろうと確信していたのに。

 良いのか悪いのか、現実はまだ涙なんて出ていない。

 いや、私だって一介の大学生なんだから人前でなんて泣かないんだから。家に戻ってお風呂に漬かって、汗と一緒に涙を枯らそう。

 ダムだってそんじょそこらの天災でなんて決壊しないし。この恋なんてどうせ台風か震度四くらいの地震程度の災厄でしかない。

 また懲りずにつらつら妄想して、我慢すると決めると顔の筋肉に改めて力を入れて、足場が悪い中出来得る限りの足早で帰路を辿る。

 踏み締める雪の絨毯は厚く、サクサクと鳴きながら、クッキーの型を取った後の生地みたいな斑模様が点在している。

 見てはいたけど、気をつけてはいなかった光景。

 一旦意識すると行く先のずっと向こう側まで、振り返っても辿って来た道程のずっと向こう側まで、私のも、誰かのも混然一体として足跡が刻まれている。

 くりぬかれた靴の型に、また雪が積もって消えようとしているものも、何度もなぞるように踏まれ、水分と土でぐちゃぐちゃになっているものもあった。

 私は早く帰るという目的の優先順位を少し下げ、まっさらな雪原と化した、見慣れないいつもの道を踏んで新しい足跡を作ったり、人の足跡という歴史を塗り替えたりして幼い遊びにしばし興じる。

 それに飽きたら、今度は雪がもたらした非日常の光景を、携帯のカメラで撮影する。

 目隠しのための壁として植えられた木々の化粧姿を被写体に選んだり、ひと気のない隘路を鋪装する白を切り取ったり、街灯が僅かな間照らすかけらたちの輝きを残したり……。

 そうして真っ白な雪の美しさに気が付く度、この雪を幸せな気持ちで眺めたかったと思う寂寥が募る。

 胸の痛みは増し、あの時の彼の言葉は再生不良に陥った音源のように何故かその部分だけ記憶の中で繰り返した。

 反芻したくもないのに、繰り返し繰り返し。味わい尽くして捨てたくても、包み紙がないからって捨てられないガムの残滓みたいなものだ。

 だって飲み込もうにも飲み込めない。飲み込む人だっているし、飲み込めないものではないけれど、私はそんなに簡単に、飲み込むことを決断出来ない。

 私はその場に少しの間立ち尽くして、雪に降られた。

 やがて傘がまた重くなって来た頃、私は私を奮い立たせ、ついでに傘の雪も篩い落としてから、帰路をまたサクサクと鳴らしながら鈍行する。

 もう此処まで来れば、殆ど帰宅したみたいなもので、そう言う間にも、月明りも星も頼れない暗闇の向こう側から薄く我が家―――とはいえアパートだけど―――が見えて来ていた。

 やがてアパートの側面まで差し掛かり、次の角を曲がれば玄関に続く階段に差し掛かる道を右折するちょっと手前に、雪が道の端に寄せられて小さな山が出来ていることに気付いた。

 その頂には、偶然なのか近所の子による必然なのか、一本の枝が刺されていた。

 普段なら気にも止めない景色だけど、感傷的な気持ちとあいまって、私にはそれが墓標のように見えてしまった。

 一度そう見えると、そうとしか見えない道理で、私にはそれが何かを埋葬しているような物悲しさを発しているように感じられた。

 ふらふらと近付いて見下ろしていると、寄せて集めた必然で土や木の葉やらが混じり、帰り道で綺麗だと感じた、羨望すら抱いた白はなく、無用の長物と化した汚泥に変わり果てていた。

 それは自然なことなのに、いつもと何も変わりはしない摂理なのに、価値のなくなった雪に自分が重なって見えた。

 価値を失った元粉雪たちの成れの果てに、名前をつけないよう、意識の外に外にと追いやっていた感情が痛みを伴って溢れて来た。

 それは意識から漏れて溢れると、当然の帰結として胸に心に染みを作り、やがて涙に姿を変えてこの世に生まれようとしている。

 なすがままそうすることは、明快に単純できっともう名前がついてしまったこの感情は浄化され、痛みの風化は想定より早く訪れ、やがてと銘打つ程遠くない未来には過ぎたものと呼べるようになるだろう。

 だけど私は……、もうこの雪たちを放っては泣くことなんて、出来ない。

 私は寸での所で涙腺を引き締めると、墓標を引き抜き、傍らにそっと横たえる。

 木の枝の直径程に開いた穴を手掛かりに、私は指先で雪の山を穿ち、削り、拡げる。

 拡げて行く。

 サク、サクと最早固まって石のようになった雪に、私はかじかむ指先を時折吐息で温めながら、ゆっくりと穴を拡げて行く。

 そうしている間にも雪は絶え間なく降り、頭上の傘に薄く、次第に厚く積もって行く。

 指先が冷たい。あかぎれを起こしそうな予感が雪に触れる度沸き起こる。

 それでも歯を食いしばって、一刀二刀と繰り返す。

 風は凍えそうな程冷たく、身体の表面は粟立ち、寒さに痛みが加味されて感覚が麻痺していくのを感じている。けれど、何故か身体の芯はかえって熱を帯び、私をつき動かしている。

 やがて雪の山の頂上に広く深い穴が出来上がった。

 目標を達成すると、途端に掌の感覚がなくなっていることに気付き、否、本当はずっと前からそうだったのだと思い出す。

 手を開閉して、ぎこちない指の動きを知覚して苦笑する。掌の水分や、混じっていた泥や小石の汚れ見て、こんな掌、小さな頃以来見ていなかったなと、汚れを厭う前に、少し懐かしさを覚えた。

 何度か泥を落としために拍を打ち、掌の汚れが多少マシになった所で、肩にかけていたバッグのファスナーを開け、中からあの小箱を取り出す。

 包装が凝りに凝った掌サイズの小箱。淡いピンク色の紙の上に、ほんのりと霞んで浮かぶハートがプリントされた包装紙に包まれ、レースのひらひらを思わせるリボンが対角線上に平行に並び、一方は蝶結びで括られている。

 この恋が上手く行きますように。思いが届きますようにと願いを込めた、だけど受け取って貰うことすら出来なかった、可哀相なチョコレート。

 私の、恋心。

 次の恋に移るためじゃない。この恋をなかったことにしたいわけじゃない。ただ、届けることすら叶わなかったこの恋に弔いを手向けたかった。

 きっと私はただ深く悲しかったのだ。

 汚れた手で綺麗な包装紙の表面をそっと撫でる。

 何往復かすると、すっかり汚れてしまった小箱だけが視界いっぱいに映っていた。

 そのみすぼらしい姿に、本当に終わってしまったのだと教えられ、ついに私は抗うことも出来ず、一粒の涙をこぼした。

 私は最早それを止めることも拭うこともせず、ただ流れるがままに身を任せる。

 頬に伝う涙が、一つまた一つと小箱に落ちては染みをつけ、この現実を刻む。

 深々と雪が降る。

 音もなくただ雪が降る。

 私の涙だけが音を生む。

 どれだけの間、そうしていただろう。

 ぽたぽたと小箱に落ちた涙がもう何処にどんな風に消えたかわからなくなるくらい、ずっとそうしていた。

 身体の強張りに急き立てられるように、やがて私は小箱をそっと雪山に開けた窪みに横たわらせた。

 伸ばした腕の関節が、やはりギチギチと油が切れた歯車のように不快な音を身体の内側に鳴り響かせた。

 窪みの周りに避けて盛り上がっていた雪たちを一掬いずつ、小箱を埋めるように元に戻して行く。

 手始めに周りに。徐々に万遍なく。少しずつ小箱は埋葬されていく。

 気持ちの強さを代弁してくれた包装紙。大切に思う気持ちを表したレースのリボン。何より、甘い思いを一しずくも残さず注いだチョコレート。

 きっと二人なら、前に進めばこれからももっと楽しいと思った。

 友達の時間が長過ぎたって、本当にそれだけなのかな。

 少なくとも私には、私にとってはあの日々だって日毎意味が加わり、価値が生まれ、気がつかないうちに手放せないたからものになっていた。

 思ったこと、素直に話せたのはあなただけだったよ。家族や女の子の友達なんかよりずっと正直に、なんでも話せてた。

 笑った顔が好きだった。冗談ばかり言って困らせる所も可愛かった。でも本当に困っている時だけは茶化さず真剣に向き合ってくれたよね。

 そのまなざしを私にだけ注いで欲しかった。

 不意に手元の雪が水滴に穿たれ溶け出した。

 体温のこもった雫に雪は融解して消えていく。

 溶けるよりも先に先にと周りの雪をかき集め、小箱を埋める。だけど次から次へと雪は小さく、だけど確実に溶けて行く。

 お願い。溶けてしまわないで。なくならないで。

 この思いがあったことだけは、いつまでも消えないで。

 流れていく雪の水を、これ以上零れてしまわないよう、必死に雪で塗り固める。

 もう充分なはずなのに、視界は歪み、指先の感覚はなく思考もままならないから、此処から先、どうすれば良いのかわからない。

 どう接していけば良いのか、わからない。

 たった一歩踏み出しただけなのに、心地良かった距離感がもう掴めなくなっている。違う。あの距離感すら、もう失ってしまったんだ。

 一歩一歩大切に詰めて行った距離が、もう。

 そう考えると、私の手は動かなくなった。

 身体を支えた緊張も解け、ふらついて、結果として雪の山に両手を押しつけ、固めてしまうようにしてバランスを取った。

 あれ程溶けてなくなりそうだった雪たちなのに、いつの間にか固く固く積み重なっていて、もう小箱は隠れて見えなくなっていた。

 見えなくなってしまったんだ。

 私は動けなかった。温めて来た恋が終わったのだと、心に整理がついてしまったのだと、悟ってしまったことが、どうしようもなく悲しかった。

 私は声を殺して泣いた。どうしようもなくて流れる涙じゃなく、吐き出すように流す涙。

 手の甲には幾度も涙の雫が零れ落ちたけど、伝う涙ではもう、雪は崩れてしまわなかった。

 やがて涙が枯れ、身体の冷えが無痛を通り越して痛みに変わる頃、雪山の隣りに置いた木の枝を探した。

 未だ降り続ける雪にそれは隠れてしまっていて、記憶を頼りにそれらしい箇所を指先で探ると、程なくしてその感触を見つけた。

 木の枝の根元を指先で掴み、少し篩い、雪を払うとチョコレートを埋葬したお墓の頂上にさした。

 餞の言葉より雄弁で、手向ける花よりずっと万感忍ぶ、この恋との決別に相応しい在り方だと思った。

 私はお墓に変わった雪山に視線を落としながら、ゆっくりと立ち上る。

 足の痺れを理由にもう少しだけその場に立ち止まり、出来て間もないお墓を見つめる。

 葬った心にあなたの姿を浮かべ、想像の中でだけその墓標にあなたの名を刻む。

 そうして今日、私はあなたを失った。


* * *


 携帯から目覚まし音がなる。

 私は浅く目覚めを感じながら、無意識に無視を決め込んで、携帯電話に背を向けるように寝返りを打つ。

 身体が鉛のように重い。未だ身体の関節の痛みや、太股始め全身に筋肉痛を感じる。

 瞼は腫れ、どうやら顔中が浮腫んでいるようだと感じる。

 十五秒はあっと言う間に過ぎ、目覚めに聴くには耳障りな音楽は止む。

 しばしまた無音の世界に帰り、後五……十分はそのまま横になって惰眠を貪ろうと決め込むと再び脳に浮かぶ言葉や感覚を鎮めに入る。

 また意識を手放しかけた時、今度は合わせてセットしていた目覚まし時計のより耳障りな音がけたたましく鳴り出した。

 折角また少しだけ現実から抜け出せる所だったのに……。

 私はこの先一分は鳴り続ける予定の目覚まし時計に八つ当たりする。

 憐れ役目を果たしただけの彼は私の平手打ちに沈黙する。

 私はと言えば成果に満足して再び意識を手放しにかかる。

 直後、今度は携帯の目覚まし音が鳴り響く。

 三度眠りを阻害された私は意識が完全に覚醒してしまい、やむを得ず身体を起こす。

 テキトーなボタンを押して音を止めると、目をつむったまま、暫くぼーっとする。

 徐々に思考回路が正常に働き始め、ゆっくりと眠気が遠のいて、再び鮮明に身体中の軋みが認識されていく。

 その身体に刻まれた痛覚が昨日の出来事を自然に思い出させる。

 あの後、痺れを引きずったまま部屋への短い遠路を最小限の運動で辿り、ドアの鍵を開けるとそのまま倒れ込みたい衝動を必死に抑え、手を洗い化粧を落としてあえなく力尽きた。

 ……所まで思い出して目を開けると、案の上昨日着ていた服を未だ身に着けていた。

 女子失格を自覚しつつ、まあ昨日の大事件の後だからと自らを慰めて、許してあげる。

「……ふう」

 私は意識的に溜め息をついて、気持ちを切り換えてみる。

 傷は深く、未だ癒える気配もない。だけど昨日のお別れを思い出したら、少しだけ痛みも和らいだような気がした。

 カーテンの隙間から日が差す。昨日の天気とは打って変わって晴れの様子。

 リスタートには丁度良いような気がする。

 そうだ、今日は気分転換にお買い物をしよう。

 欲しかったラグでも買っちゃえば、部屋の雰囲気も変わって気持ちも明るくなるかもしれない。

 色で迷っていたけれど、明るい色を選ぼう。きっとその方が良い。

 明るくなったこれからの部屋を妄想してもう少しだけ、気持ちが楽になるのを感じた。

 ……のに直後、小さな違和感を感じた。

 それは身体の痛みではなく、心からのものでもなかった。

 つまり私の中の違和感ではなく、外側の要因ということになる。

 覚醒してからの数分を丹念に思い返してみるも、特に要因らしい要因は思い当たらなかった。

 きっと思い違いだろうと結論づけて、無意識に手元の携帯を開く。

 と、手元に振動を感じ、メールか電話の着信があったことを知り、次に先の違和感の正体はこれだと悟った。

 画面に視線を落としメールの着信であることを確認、ついで受信フォルダを開いて。

「……え?」

 私は無理矢理欠落させた心の一部がまた再生し始める予感を感じた。

 ためらう間もなく、私の指はいつもと同じように、無意識に開封までの手順を消化する。

 心の準備もなく開かれた本文に私は私の全部を拘束される。

 読み終えて、私は脊髄の反射で跳び起き、次いで意識でどうしよう、とその次の行動について検討する。

 とっ取りあえず顔を洗うべき?!

 私は混乱の最中思い付いた行動に優先順位を振り分けて行く。

 顔を洗って歯磨きして? 服を選んで? あ! お風呂……仕方ないシャワーでてっとり早く済ませて、そうだ!!

「チョコ……!」

 昨日なんだか妄想のままにすごいことしてないか私?!

 わー!! どうしよう?!

 思わず頭を抱えて仁王立ちになる。

 取りあえず……!

 私はそのまま脱ぎ捨てたコートを羽織って玄関に急ぐ。

 天然の冷蔵庫みたいなものだから中身は問題ないとして!

「包装し直さなきゃ!」

 私はまた優先順位を組み立て直しながら玄関の扉を開けた。


 

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2010年05月15日:初出
2010年05月07日:完成