中編恋愛小説>絆=You & I=>第04話「僥倖〜導かれた二人〜

僥倖〜導かれた二人〜



「おはよう、綾」

 徹はもう5年もこれを繰り返していた。

 朝が訪れる度、今日こそは綾も目を覚ますのではないか、と信じてきたから。

 しかし最近では、そんな微かな希望さえ、抱けなくなっていた。

 目が覚めて、真っ先に彼女の顔を覗き込んでみても、瞑っている目は相も変わらずそのままでいる。寝息は時に穏やかで、しかし時に苦しそうにする…。

 どんな夢を見ているのか。或いは、どんな記憶にうなされているのか。何も出来ない自分が、悔しくて泣けてくる日もあった。

 徹は彼女の唇にそっと、触れるだけのキスをすると、彼女の髪を撫でた。

 腰をあげると、徹は窓に向かい、朝陽を遮るカーテンを開けた。いつもより真っ白い光が差し込んだかと思うと、辺りはたちまちその閃光に包み込まれた。

 それは例えると、天国を思わせるような風景だった。


* * *


 走馬灯のように駆け廻る映像。全てが儚く移り変わり、このシーンを見たいと思っても、それは叶うことが無い。

 また頭が鈍く痛んだ。直後、はっきりとした徹の声が聞こえた。

「おはよう、綾」

 綾に頭部に鈍器で殴られたような衝撃が来た。綾の意識は朦朧とした。

 少しして、唇に柔らかい感触がした。

 全身が痺れ、幸福に胸が躍った。何か忘れていたもの、無くしていたものにまた、廻り逢えたような気がした。

 そして、身体にまた、異変が生じた。

 先程まで非常に重かった瞼がなぜか今は、羽根のように軽く感じるのだ。決して開けないと思っていた瞼が、今は。

 綾は瞼の向こう側にある空間が、以上に明るいことに戸惑いながらも、恐る恐る、しかし確実に開いていった。

 そして、完全に開ききった時に思ったのは、この場所はもしかして、天国なのではないか、ということだった。

 その場所を見回してみる。と、右手側に人影が見えた。その背は広く、なくした大切なものを、埋めてくれる存在に思えた。

 上体を起こして、その背中を見つめる。

 そう、それは失ったものと、瓜二つのものだった。

 暫くそうして見つめていると、その背中がやがて、振り返り、綾はその目を疑うことになった。

 何故ならその背中の持ち主は、間違えもしない、自分の愛した人、亡くしたと思っていた、徹本人だったからだ。


* * *


 徹が窓から容赦なく差し込んでくる朝陽に、何とか勝てるようになった頃、背後で微かに音がした。訝しげに思った徹は振り返って確認した。

 確認してまた、驚愕した。

 自分は正常だろうか。徹はそう思った。

 狐に頬を抓られたような感覚だった。

 たった先程まで、5年間も眠り続けていた綾が、自分の意志で、力で起き上がったのだ。5年間も待ち続けた末に、漸く―――。

 よろよろと綾の傍に歩いてゆく。すごく遠い位置にいるように感じた。

「…徹? 徹なの…?」

 徹の鼓膜に、彼女の声が、肉声が飛び込んできた。

 あぁ、この瞬間をどれほど待ち侘びたことだろうか。

 彼女の声は彼に至上の幸福を届けてくれた。

 徹は漸く綾の元に辿り着くと、しっかりと確かめるように、彼女の身体を抱きしめた。


* * *


「…徹? 徹なの…?」

 綾は確かめるように、静かに問う。

「…綾…ッ!! 君がいない間、寂しかった…!」

 徹は抑えていたものを抑えきれなくなって、声をあげて泣いた。
 綾は朦朧としている、晴れない意識の中でぼんやりと、人の肌の暖かさを感じていた。


* * *


 その後がとても大変だった。

 病院での医師の対応は、まさしく奇異のものを見つめるようなものだった。看護婦達も諦めていたのだろう。しかし、綾は奇跡的にも回復したのだ。

 ―――…そう、本当に奇跡としか、いいようがないのだ。

 通常、この状態―――植物人間状態に陥った人間が回復する見込みは、1パーセント以下なのだ。呼吸、循環等の生命維持に預かる下部脳幹の大きな障害は免れたものの、上部脳幹から視床下部、視床、大脳半球といった広範な部分に生じた不可逆性の障害がもたらす結果なのである。

 噛み砕いて説明すると、生命維持に関わる部分の障害だけは免れたものの、脳の大部分に生じた障害がもたらした結果が植物人間状態というのだ。

 この状態と確定するには、以下の項目が見られる。

 自力で歩行出来ず、自力で食物を摂取できない。加えて糞尿失禁状態に陥り、物を目で追うことが出来ても、それを特定のものとして認識できない。声は出せても、意味のある発音は期待できない、以上の症状が3ヶ月以上継続し、固定されている―――。

 植物人間状態と、簡単に言ったり聞いたりするが、果たして正しい知識をもっている人が、この世界に何人いるだろうか?

 徹は綾の状態を聞いた日から、専門的知識を取り入れるため、医学部に行った旧友で、特に脳外科に就職したと聞いていた友に電話をし、詳しく話しを聞いたりと、とにかく彼女の陥っている状態について、詳しく勉強を重ねた。

 そして、時間の許すかぎり、彼女の傍に居て、彼女の世話をしていた。

 5年という、長い歳月を費やしてまで。

 時に看護婦に何故かと聞かれたことがあった。徹は迷わずこう答えたという。

『私を支えてくれた人ですから。今度は私が支えてあげないと…』

 そういった彼は少し、寂しさに負けて泣いていたという。

 これらの話は全て、今医師や看護婦から聞いたことだった。徹は誰かが何かを話す度、

『あ! それはナイショにしてくださいよ!』

『ひどいなぁ、根も葉もないこといっちゃダメですよー』

 等、とにかく元気が良かった。

「当然それは、綾が回復してくれたおかげだよ」

 徹は一点の迷いもなく綾に告げた。綾は恥ずかしくなって頬を朱に染めた。

「しかし、本当に驚きました。こういうことはまずないですし、仮にあったとしても、その方々とめぐり合う確率は、更に下がりますからね」

 医師は幾分興奮していたようだ。

 当然だろう、目覚めることなんて無いと思っていたのだから。医学史上、類稀なる出来事に直面したのだから。

「加えて、後遺症のようなものも、今のところ何も見受けられない。私としては、香咲さんが5年間も眠っていらっしゃったので、その間に蔓延したウィルスに当てられないかと心配しているのですが…。とりあえず、これから暫くは通院してくださいね」

 徹も綾も頷いた。

「今日程の良き日はありませんよ。お二人でお祝いでもしてくださいね。…但し、無茶は禁物ですよ」

 そう言って笑った医師に合わせて、その場の者皆が笑った。

「そういえば―――」

 医師がふと、思い出したように問う。

「先程までの状態の間、どんなことがありましたか?」

 綾が疑問符を浮かべていると、医師はあっ、と呟いて続ける。

「その、目覚めた人と話せる機会って、そうないものでして」

 そういって苦笑する。綾は微笑むと、少し思い出しながら、言葉を選び、ゆっくりと話し始めた。

「そうですね…。最初は自分の家の、リビングにいました。結婚5周年のパーティの用意をしていて、夜一時を回った頃でした。病院から電話がかかってきて…」

 と、突然徹が立ち上がり「ちょっと、飲み物買ってきます」とだけ言い残して、足早にその一室を抜け出し行った。綾が呆気にとられていると、看護婦が言った。

「そこはもしかしたら、まだ事故に遭われる前の記憶かもしれませんね。香咲さんがここに来た時、残業していて遅れてしまったことを嘆いていましたから…。それはもう、取り乱して」

 綾は顔をこわばらせた。

「憶えてませんか? その後、病院でお二人ともお話になられたんですよ」

 綾は正直にいうと、狼狽していた。記憶の海から、いくつもの失われたそれの断片が流れ着いてきて、綾自身に流れ着いてきている。

 5年前から失っていた、記憶の断片が…。

「とにかく、全てを明らかにするために、話してくれませんか?」

 医師はそんな綾を促した。

「…徹が病院に運ばれたと聞いて、私はタクシーで急いできました。看護婦さんが迎えてくれて病室に案内してもらって…。そしたら、徹がベッドに横たわっていて、少しだけ、話をして…」

 皆一心になり、綾の言葉を待つ。

「次の日、彼は亡くなりました。お葬式をして…」

 綾は泣いていた。思い出すと辛い。

 医師は言った。

「もういいですよ…。辛いなら、時間さえかければいいことだ。ただ、貴方は本当に幸せですね」

 医師はなく綾を見て続けた。

「自分の愛した人に誇りを持ってください。彼程のいい男はいないだろうからね」

 綾はただ、頷くばかりだった。


* * *


 その部屋を挨拶をしながら出ると、外には徹が椅子に腰掛けて待っていた。二つの缶ジュースを握り締め、幸せそうな顔で、眠っていた。

 きっと疲れたのだろう。5年の歳月をかけて自分を支えてくれたのだから。

 綾は徹の隣に座ると、彼の頬に、髪に触れながら一言呟いた。


"ありがとう"


 と。

* * *

 それから長い時間もかからずに、彼は目覚めた。綾がおはよう、というと徹は多少驚いた顔でおはよう、と返した。もう、長い間交わしていなかった言葉だった。

 それから二人は並んで病院の外に出た。

 新鮮な風に吹かれてなびく二人の髪。

 つい先程まで感じ得なかった生命の鼓動が動き出した心地だった。

「綾」

 徹は短く彼女を呼んだ。

「どうしたの、徹?」

「…これからもずっと、一緒にいようね」

 綾が呆気にとられていると、徹は恥ずかしそうに顔を伏せた。

「…うん」

 二人は久方ぶりに手を繋ぎ、帰路を共にした。


 

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2010年01月27日:デザイン改修
2001年04月28日:初出