中編恋愛小説>絆=You & I=>第01話「プロローグ〜哀しみの始まり〜」

プロローグ〜哀しみの始まり〜



 その日、4月3日は彼女、香咲 綾(こうざき あや)にとっても、香咲 徹(こうざき とおる)にとっても、世界で一番幸せな日になるはずだった。

 結婚して五年目を飾る記念すべき日。綾はいつもより倍の、いや、数倍の時間をかけて、手料理を作り上げた。

 ほんの少しだけ味見をしたけれど、とても良く出来ている。これなら徹もきっと、美味しいと誉めてくれるはずだ。最も、彼ならいつもそう言ってくれるのだけど。

 テーブルに食器や、先程出来上がったばかりの食事を並べ終えて、綾は今日という日まで眠らせていたワインを持ち出してきた。結婚の祝いに、と友人から譲り受けたその赤ワインは、結構な値がついているらしい。

 しかし、綾はワインに関してはほんの僅かな知識さえも持ち合わせていなかったので、その価値は理解できないで居るが。

 先程取り出した赤ワインと共に、ヘソクリを貯めて、徹に内緒で買ったワイングラスもそっと並べた。

 それらを自分の席について眺めていると、昨日のことのように思い出されるのは、丁度今日のように腕を振るった結婚一周年記念のパーティのことである。


* * *


 時刻は丁度24時を指し示していた。折角愛情を込めて作った料理も、すっかり冷え切ってしまっている。携帯に何度かかけたが、電源を切っているのか、はたまた地下鉄の中で閉じ込められているのか与り知るところではないが、とにかく繋がらなかった。

 綾も流石にイライラし始めた時、チャイムの音が鳴った。徹だろうか? しかし、彼なら家の鍵くらい、持っているはずだ。

 そう思案していると、もう一度チャイムが鳴った。とりあえず綾は玄関へ移動し、扉の覗き穴から外を確認してみた。

 徹だった。嬉しそうな、あどけない微笑みを顔に浮かべながら扉が開くのを待っている。それはまるで、何か驚かそうと企んでいる、幼い少年のそれと似ていた。

 綾は徹がなんとなく、何を考えているのか検討がついたので、彼に合わせて扉越しに『ハ〜イ?』と返事をした。案の定彼は、

『宅配便でーす』

 と告げてきた。心底可笑しいのを必死で堪え、彼女は『あ、今出ます』と返事をし、扉の鍵を開けた。そしてすぐ施錠した。宅配便のお兄さんは一テンポ遅かったので、施錠された後にドアノブを回した。当然の如く開かない。

『なっ……』

 扉越しに聞く、徹の狼狽した声。彼女は可笑しくて吹き出した。

『あ、綾、気付いてるんだったら開けてくれよぉ』

 外から情けない声がする。綾は意地悪く『あれ、宅配屋さんじゃなかったんですか?』なんて訊く。

『ちょっ、ちょっとしたジョークなんだよ、開けてくれよ〜』

 綾はそんな彼の声を聞いて、流石に可哀想になりロックを外してあげた。そして、扉も開けてあげた。きっと、今度は開けてくれと言うに違いなかったから。

『お、ありがとう! そしてぇ……』

彼は勢い良く家の中に飛び込んでくる。

『結婚一周年! おめでとう!!』

 彼は先程から背中に見え隠れしていた真っ赤な薔薇の花束を彼女に向けた。


* * *


(あの後徹ったら、『示しがつかなかった』って、嘆いてたっけ)

 今思い出しても、やはり可笑しくてたまらない。5年、結婚前に付き合っていた時間を足すと8年も寄り添って歩いてきたけれど、徹への想いが色褪せないのはきっと、徹と一緒に一日一日積み重ねてゆく毎日のおかげだろうと、改めて感じた。

 ふと、時計に目をやる。24時。また徹は、何かを企んでいるのだろうか? いつも私に向ける、あのあどけない微笑みを浮かべて。


 それから一時間が経過した。遅い。

 いくらなんでも、連絡なしにこんな遅くなることはなかった。それとも、携帯の電池が4年前のパーティの時のように、切れてしまったのだろうか? いやしかし……。

 などと、様々な場合を思案している時、電話が鳴った。徹からの電話? 一瞬そう感じたが、次の瞬間には、その音が何か不吉なものに感じられて仕方がなかった。

恐る恐る受話器を持ち上げる。そしてそれを耳まで持ってゆく。それだけの些細な距離が、何故か何メートルもあるように感じた。

「……はい、香咲です」

 少々気後れしつつ応答する。

「………………」

 綾はその言葉を聞いて、自分の耳を疑った。

 まさか、そんなことがあるわけがない。今朝だって徹は無邪気な笑顔を見せて、会社に出かけていったのだから。

「大島中央病院です。それでは……」

 最後の一言を聞くか、聞かないかの内に、綾は走り出していた。財布の入ったバッグだけを急いで取った。そして、玄関に向かった。背後で何か割れる音がしたが、そんなものに構っている余裕はなかった。


* * *


 綾が真夜中の病院に着いた時、玄関に看護婦が一人立っていた。

「あの、香咲ですが…………」

 看護婦さんは既に小走りをする体勢で返答する。

「こちらです!」

 看護婦の後を、綾は一生懸命追った。やがて、或る一室に辿り着く。

「どうぞ」

 綾はそんな言葉も聞き入れる余裕なくその部屋に飛び込んだ。そして、丁度その部屋の中央に置かれたベッドの上に、見つける。紛れもない自分の夫、香咲 徹を。変わり果てた、自分の夫……。大好きな、自分の夫……。大切な……。

「徹!!」

 心配で堪らない。安否の報せを受けたのだろうが、事故にあったと聞いて既に錯乱していたから憶えていない。

「……綾」

 徹は綾の声を聞くと、痛々しい笑顔を浮かべて綾の髪を撫でた。

「……ごめんな。今日は僕等の大切な日だったのに、こんなことになっちゃって……」

 喋るのにも苦痛を伴っているようだ。

「いいの、徹が生きていてくれたことが一番の幸せよ……っ」

「だっ、抱きついたら痛いって!」

 徹は綾を慌てて引き離す。

「あ、ごめん……」

 綾は離れると、もう一度じっと徹を見つめた。何があったのか。彼に降り注いだ不幸を想像するだけで、鳥肌が立ってくる。

「ねぇ、何があったの……?」

 綾は訊かずにはいられずに、少し遠慮がちに徹の目を見る。

 彼の瞳に映る自分は、なんて顔をしているのだろう。私がこんな顔をしていたら、徹だって直るものも直らないじゃない……。

「……綾、僕は大丈夫だからそんな顔するなよ」

 そして徹は、綾がたった今まで考えていたことを指摘する。

 あぁ、私は事故にあって大変な人にまで、心配されている……。本当は私が、彼の支えになってあげなきいけないのに……。

「綾はやっぱり、優しいなぁ。僕のためにそんな顔までしてくれるんだから」

 綾は顔を上げた。其処には心から暖かになれる、徹の笑顔が花開いていた。

「……とおるぅ」

 綾は堪えきれず、声を上げて泣いた。ベッドに横たわっている、彼の身体に顔を埋めて。

「だぁぁ、痛いって、綾!」

(この人に出逢えて、本当に良かった……っ!)

「そうだ!」

 綾は突然、涙で濡れた顔を上げた。

「徹が回復したら、結婚5周年記念のパーティの続きしようね!」

 一瞬呆気にとられた徹だったが、すぐに笑顔を浮かべ、

「うん、約束だ」

 二人は頷きあった。

 その時、部屋の扉がノックされた。

「はい」

 二人の声は重なった。

 入ってきた看護婦さんは苦笑しながら「香咲さん、入院等の手続きをしていただけますか?」

 綾はひとまず、手続きに向かうことにした。

「それじゃあ、いってくるね」

 綾は立ち上がって、一歩一歩徹から遠ざかってゆく。

「……綾!」

 と、突然徹が声を上げる。

「え?」

「……僕が居ない間もちゃんと、元気にやるんだよ」

 今度は綾が呆気に取られる番だった。

「うん!」

 そして、微笑みあった。

 二人は、いや、もしかしたら綾だけが気付いていなかったのかもしれない。

 これが二人、微笑み合う最後の機会なのだということに……。



 

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2010年01月27日:デザイン改修
2001年04月03日:初出