長編恋愛小説>Lostin' World>第00話「夢の牢獄」

夢の牢獄



 目醒めると其処には見覚えのある天井は跡形も無く、変わりに眩い赤が容赦なく視界を埋め尽くした。

「此処は……? うっ……」

 次いで彼の感じた異常は、何かを焼いたことを予期させる悪臭が立ち込めていることだった。異臭を吸うまいと止めた呼吸の息苦しさと、耐え切れず息をついた瞬間に入り込んで来る異臭の凄まじさに顔を歪めて耐えながら、上半身を起こして辺りを見回す。

 コンクリートやガラスの破片が散乱している。昨日まであった壁も脆く崩れ去り、大きく穿たれた風穴の向こうでは目を疑うような凄惨な世界が広がっていた。

 空を蔽い尽くす黒雲はその青さを奪い、切れ間から射す光はそれまでに見たことのない程の真紅で炎を直ぐに想起させた。立ち並んでいたはずの建物は一切の跡形を残さず、遠くには空に向かって猛り狂うように、文字通り火柱が竜巻のような立ち上って渦巻いている。足元には真っ黒な液体が淀みなく流れ続けている。

 期せずして視界に映った自分の掌に、愕然とする。

 焼け尽くした真っ黒な皮膚の下から、水気をそれでもまだ帯びている赤い肉が露わになっていた。そればかりか燃え尽きた服の破片が自らの皮膚に癒着している。腹部には着ていた寝巻きの模様がくっきりと残っているが、その布は総て燃え尽きてしまっているようだ。

「ああああああああああああぁぁぁああぁああああああああああああぁあああああああぁぁぁあああ!」

 混乱は極まり、何かを考える余裕すらなく、ただ反射的に慌てて胸の辺りにこびりついた切片を剥ぎ取ろうと、端の浮いた部分から布を引っ張ると、皮膚と僅かながら肉が剥がれ落ちた。手に血が飛び滴り、半狂乱になった男は手を振り払った。そして悪臭も忘れて荒い呼吸を続けると、唐突に自分の顔がどうなっているのかを知りたい衝動に駆られた。思い至らなければ幸せだったかもしれないと、男は頬に手を触れた瞬間に後悔した。

 粘着質な柔らかさに触れ、鈍い痛みが頬に走る。

 見なければ良いのに、どうしようもなく見てしまいたい。

 目を瞑り、手を頬からゆっくり離す。また朧気な痛みが身体に走ったが、直ぐに消える。

 目の前に掌を持って来た。二、三度浅い呼吸をして、意を決したように目を見開いた。
 
 
 得体の知れない何かが、手に付着した。
 
 
 何か声に出しかけてやめた。この気持ちを表す言葉など絶無だし、何より声にした所でこの悪夢から逃れられるとも、到底思えなかった。

 ……悪夢?

 脳裏で流れ過ぎようとしていた言葉を必死で手繰り寄せた。その可能性を想定の範囲内に置いていなかった。何て愚かだったのだろう、これが現実で在り得るわけがないのだ。悪夢以外に、この世界をこんな地獄絵図に書き換えられるはずがないのだ。

 自虐的に力無く笑うと、一言「醒めろ」と呟いた。

 その瞬間だった。何処か遠くで地面が揺れる程の激しい爆発音がした。背後から迫り来る音と熱に、咄嗟に振り向いた。

 すると、ずっと遠い向こうで、目覚めて直ぐに見た炎の竜巻がその激しさと勢いを増して、心なしか近づいてきているような気がした。そればかりか、竜巻に飲み込まれていたのであろう、大きな……コンクリートだろうか、その破片が無秩序に周りの地面に投げ飛ばされている。

 燻っていたのであろう火種も竜巻に飲み込まれ、更に炎は凄惨さを増している。

「なっ……!」

 男は呟きよりも早く、起き上がり一目散に走り出した。

 逃げろ。

 男は自分の脳に指令するより早く、本能で走り出していた。時々足が(もつ)れて転びそうになった。しかし、此処で転んでしまったら……。結果は解りきっていた。

(死ぬ……!)

 最悪の結果を予期しながら、しかし抗うようにただただ走り続けていた。灯火のような命だったとしても、燃え続けている限り護りたいと思うのは動物の本能だろう。その思いだけが、彼を奮い立たせていた。

 走っても、走っても、走っても。竜巻は彼を執拗に追い続けるようだ。まるで、彼しか相手にしていないかのように。まるで、彼を虐げることを愉しむかのように。

 男は風になったような気持ちで走り続けた。そうとでも思っていなければ恐らくはこんなに走り続けられないだろう。もはや一切の苦悩や恐怖はなく、息苦しさすらも忘れていた。

 忘れていたのに。

 男は咄嗟に足を止めた。まともな道など、これまでだってなかった。雨のように降り注いだガラスや木片なら、此処に来るまでに気にすることもなく踏みしめて来た。痛みを感じないなら、悪夢なら大した問題ではなかった。しかし、悪夢だと思い込もうとしても、悪夢だと信じていたとしても、その先にだけは踏み込めない。

 折り重なるように倒れた無数の炭は、間違いなく元々は人間だったのだろう。生きていたのだろう。しかし今は真っ黒に焼け爛れ、呼吸を忘れ、醒めない夢を見ているようだ。

 男はその場にへたり込んだ。

 荒く呼吸を繰り返し、その見るに耐えない光景を見て、漸く立ち込めていた異臭は人が焼かれた匂いだったことに思い至った。

 背後を振り返る。もう、目前まで竜巻は迫っていた。近づいて来る怒り狂った風の強さに、左腕を根こそぎ奪われた。しかし痛みは感じない。もう、死は彼に喰らいついているのだろう。諦観は、今になって思えば走り出した時から感じていたように思う。

 もう目前まで迫った竜巻を見上げて、自分の命を奪うのであろうそれをしっかりと脳裏に焼き付けて、目を閉じた。

 数瞬の後、身体が浮き上がるような感覚を覚えた。いよいよ巻き込まれたのだ、と咄嗟に男は思った。しかし身体は安らぐような温かさに包まれ、目を閉じていても眩さを想起させる白さを感じて、恐る恐る男は目を開けた。

「これは……」

 真っ白い光が、彼を覆っていた。竜巻は直後彼を取り込んだが、その激しさを以ってしても、光の膜は破られることなく、彼を護った。

 彼は呆然として、目に飛び込んで来る映像をただ享受した。

 上昇して行く光は、ついに黒雲を突き抜け真っ赤に燃える空の下まで彼を導いた。急速に霞んでいた意識が明確になる。しかして目線の先には、一人の女性が立っていた。

「……可哀相に。そんなに焼け爛れて」

 そう呟いて、女は男に手をかざす。と、彼が失ったはずの腕は再生し、真っ黒に焼け焦げていた肌が元の色を取り戻し、朧気だった身体中の感覚が、元に戻っていく。

「戻った……。俺の身体が元に戻った!」

 男は歓喜の声を上げた。女は優しげに微笑んでいる。

「さぁ、次に。私は、貴方に謝らなければならないの」

 女は微笑みを崩さず、しかしそれでいて申し訳なさを感じさせる、名状し難い表情を浮かべ、唐突に言葉を紡いだ。しかし予想だにしない彼女の言葉に彼は首を傾げる。 

「謝るって……。寧ろ俺は感謝しているんだ、そんなことされる覚えはない」

 女はしかし、首を横に振る。

「いいえ。そもそも、貴方を此処に閉じ込めたのは私だから」

 女は不可思議なことを云う。

「どういうことだ?」

 男は全く顛末の見えない言葉に戸惑いながら、曖昧な相槌を打って先を促した。

「……此処が何処だか分かるかしら?」

 男はその問に数瞬躊躇して「いや、俺の住んでた所に似てはいるけど」と答えた。

 女は意味有り気なため息をつくと、少し云い辛そうな顔をしたが、それは一瞬で消え入り、代わりにまた不思議なことを言い出した。

「此処はね、貴方の夢の中なの」

 男は返すべき言葉を捜しあぐねていたが、戸惑いは期せずして言葉となった。

「……は?」

「貴方は死んだの」

 間髪入れない女の言葉。一度は覚悟したことだったが、改めて他人から発せられた音の振動に鼓膜を振るわせられると、急速に疑問が噴出して来る。沢山の言葉が浮かんでは消え、消えて浮かんで、一瞬とも永劫とも判断のつかない沈黙は、しかして案の定男の戸惑いの声に打ち砕かれた。

「……嘘だろ?」

「いいえ、貴方は確かに死んだ。覚えてないのも無理はないわ」

「……俺が死んだ?」

 到底受け入れられないであろう言葉を、無理矢理納得させるかのように、女は優しい声で、しかし無慈悲に語る。

「……通常、人が睡眠を取っている間に、REM睡眠と呼ばれる状態が存在します。REM睡眠の間は私達が起きているときと同じような働きをします。つまり、睡眠中なのに、脳は活発に働いているという状態を示すのです」

「………」

 沈黙を護る男を他所に女は続ける。

「その間は、脳が発する思考、感覚、感情が夢となって現れるのです。それで」

「それで! 何で俺が此処に居るんだよ……。自分の、夢の中に」

 女の言葉を声を荒げて奪うも、受け入れられない不可解な言葉の羅列に言葉は続かず、消え入ってしまう。女はうなだれる男を見据え、暫くして男がそれ以上の言葉を紡げないことを悟ると、先の自分の言葉を引き継いで続ける。

「REM睡眠中の特徴は先に言ったでしょ? 脳は働いているの。貴方は足元から火に巻き込まれ、脳が死に到達するまで15秒の時間を要した。その間、脳が発した感情。”死にたくない”その思いが、貴方の魂を自分の夢の中に取り込んだ……」

 女は言葉を区切った。男の言葉を待つようだ。

「百歩譲って、その馬鹿げた話を信じたとして……いや、もう何が正しいかなんて解らない世界だ。信じよう。けど信じたとして」

 男は自分の言葉にすら戸惑っているようだった。無理もない、と言いたげな瞳で女は男の言葉を待つ。

「あんたが何故、俺に謝るんだ?」

 既に想定した問なのだろう。女は淀みの無い清流を思わせる声で告げる。

「私が世界を壊したの」

 静謐せいひつが二人を包む。しかしそれも一瞬のことで、女は大したことはないと言いたげな声色で続ける。

「私の作った星だもの。これ以上穢されて行く様を静観出来る程に私は慈悲深くはない。誰もが救いを求めて来るけれど」

 男は少し考え込む。

「だけど、元をただせば総て私の責任。この結末を全く予測していなかったわけではないけれど、それでもあなた達を信じていた。だけど果実を奪われ、火を盗まれ匣を開けられて、私はあなた達に絶望した。けれど裏切りは多かれ少なかれ在り得るからと、赦してきたわ」

 男は既に言葉を返そうとはしない。ただ静かに聞く。

「赦して来たのに、それでもあなた達は裏切り続けた。愛した来たのに、愛してくれなかった。だからやり直すことにしたの」

 彼女はいつの間にか強張らせていた表情に思い至り、また笑顔を浮かべた。拘束から放たれた咎人の自由にも似た残酷な笑顔だった。

「……御免なさい。あなたに言うべき言葉ではなかったわ。赦して頂戴ね」

 彼女は頭を下げた。

「それじゃあ、さようなら」

 女は顔を上げ一つ微笑むと出会った時のように手を光にかざした。光は眩さは増して行き、男は光に飲み込まれ女の姿を見失っていく。

「……待ってくれ! 俺はどうすれば良いんだ!」

 女は諦めたようなため息をつき、しかし最期だと思い直して笑顔で告げた。

「眠りなさい」

 男がこの世界で最期に聞いた一言は、母を想起させるような慈愛に満ちた言葉だった。

 そうして一層の輝きを放った後、光は天空に向かって急速に昇って行った。女はその光を見届ける。また夜を迎えた空が、宇宙に浮かぶ星を浮き上がらせる。彼を包んだ光は、此処から見上げれば、まるで星のようだった。

 女はまた、愛した星を見下ろした。痛々しい姿を晒していたけど、それも一瞬のこと。

「直ぐに綺麗にしてあげるから」

 女は悲しげな瞳で涙を浮かべながら、優しく呟いた。
 
 
「……奈……美…………」
 
 
 直後。地上から、微かに声が聞こえた。女は溜めていた涙をついに零した。まだ、傷ついた者がいる。

 女は痛む胸を押さえながら、一度口を硬く結ぶと、声のした方に下って行った。

 本当に自分は正しかったのだろうか……。

 今になってずっと押し殺して来た疑問が溢れ出して来た。だけど最後まで揺るぎなく保たれた信念が彼女を奮い立たせる。

 もう一度、緑の美しい惑星にするのだ。争うことを知らない生命だけを育んで、幸せな惑星にするのだ。

 焼け尽くした地上に降り立って、彼女はもうじき生まれ変わる星の姿を思い描き、後悔を感じないようにして声の主を探した……。
 
 
 淀み、穢れ果てに焼き尽くされたその惑星は、もうすぐ本来以上の蒼さを取り戻すことだろう。
 
 
 太陽が夜を溶かし、暖かな光が朝を届けるその瞬間のように。
 


 

NEXT|
HOME| INDEX| WEB CLAP |


2009年10月28日:デザイン改修
2005年08月14日:加筆修正及びデザイン変更