凪ぐ夜風に木々の枝葉が揺れる。静寂はさらさらと揺れるその音で破られる。
この時刻、決してひと気のなさそうなその場所には、決して似つかわしくない一人の少女が佇んでいた。
「……」
一本の大木の前に立ち尽くすその少女は目を閉じていた。静かな呼吸。体温。肩ほどまで伸ばした髪が、やはりさらさらと舞い―――。
「浩一さん……」
やがて、思い出したようにその名前を呟く。
長い年月を生きてきたのだろう、もう若返ることにないひび割れたその大木の表面に柔らかく触れ、崩れ落ちないように、優しく撫でた。
「……ねぇ、浩一さんって、不思議な方なんですよ」
ふいにひと時、辺りの風が止む。大木も、周りの木々も言葉なく、静かに聞いている。木葉の次の言葉を待っている。
「私に、優しくしてくれるんです。何故でしょう?」
当たり前に、大木には答える術がない。大きな身体をただ凄然と空に伸ばし、大地に根を這わせ、ただあるがままに立つ。包容力をも感じさせる立ち姿。そんな大木なのに、何故だろう、風もなく枝葉が揺れた。
「……難しいですね、人の気持ちって」
そう呟き、もう一歩大木に歩み寄って、おでこを大木につける。しばらくそうしていた木葉は、やがて委ねた身体を離し、大木の更に奥に歩みを進め、山を登る。
木葉が向かった先。其処は今までの場所と打って変わって視界が開けていて、町の灯りが良く見える場所だった。彼女が、木葉がこの世に生を受けて、浩一と出逢って―――。そんな時に見つけたこの場所は、木葉の知る限り街の息遣いを感じられる、一番心地よい場所だった。
「…あれかな、浩一さんのおうち。まだ、起きてるんですね」
正確な時間はわからない。ただ風の冷たさとか、家々の灯りが落ちて寝静まった街の雰囲気で夜更け過ぎだと思われる。灯りのついた家はもう、ぽつぽつとしか見られず、車の走る音もほぼない。
「私、嫌われちゃったよね……」
夜空に、ぽつりと呟いた弱音は、思いのほか響いた。
「木の精だなんて分かったら、誰だって……っ」
不意に、頬に伝う冷たい感触。
「涙……? 私、泣いちゃったの?」
こぼれ落ちた涙を手で拭って。それでも零れてくるから、また拭って。いつまでも止まらないから、木葉は堪え切れなくなって、思わず気持ちを吐露する。
「嫌われたく、ないよ…ぉ……!」
風も止んだ、夜の山に。
木々の囁きも無くなった、その頃に。
ただ一人、たった一人立ち尽くす木葉の、真っ直ぐな思いがこだまする。
木葉の心からの思いが、あふれ出す。
その夜。森には木葉の泣き声が響き渡った。
木々はそんな彼女を優しく包み込むかのように、風もない夜空の下でもその身を揺らし、木葉の泣き声が浩一に聞こえないようにいつまでも枝葉の擦れる音を鳴らし続けた。
Copyright © 1999 - 恋愛小説専門サイト・「夢の扉」All Rights Reserved.