長編恋愛小説>Love-Songs[木葉]>第05話「噛み合う歯車」

噛み合う歯車



 予てから時間と言う概念は極めて不思議なものだと考えていた。
 
 例えばたった今、この瞬間を例に挙げて唐突なこの思念に対する申し開きを敢行するならば、率直に言って授業時間における十分は間違いなく長い。だけど休み時間の十分は非情にも非常に短い。この誰しもが通過儀礼的に感じたであろう感覚は、今一度熟考する必要性がある。
 
 まず疑うべきは学校側の陰謀の可能性だ。例えば俺たちは「時計の針は一定の間隔で進み続けるもの」であると認識している。其処にどうしようもなく付け入る隙があるのではないだろうか。例えば国家レベルの策略によって国民はまず、時計の構造に関する知識を植えつけられる。その内容は言わずもがな我々に根付いている現在の慣習で、その実就学時間を刻む間の時計は二分の一の速度で進んでいるのではないか。
 
 つまり休み時間の十分が、本来の十分であると定義するなら、学習時間の十分は二十分に設定されていて、我々の眼の届かない所で、実は秒針が、或いは分針が休憩しているのではないか、と言う危惧だ。
 
 よし、確認してみよう。
 
 秒針、分針の何れかが滞りなく進んでいるかどうか、この目で確かめることが出来る。しかし時計は見続ければその意味の深さが実に顕著に現れていると思う。時計は言って見れば社会の縮図だ。秒針が俺たち最下層民、分針は会社とかの偉い人。そして時針まで来ると国家レベルのお偉いさん。齷齪《あくせく》働いて漸く手にした金は、結局は元あった場所に帰るばかり。流通という言葉は実に言い得て妙だ。

 ふむ。間違いなく六十秒を回って一分が経過した。

 つまりこれは、遺憾ではあるがこれまで組み立てていた論が否定されたことになる。

 いやいや、そう結論付けるのは性急ではないだろうか。

 今俺がやっていることは、国家を相手取った所謂訴訟であると評価して差し支えの無い行為だ。思うに相手は俺のような輩が少なからず日本国内に生息していることを予測していることだろう。その逆算から弾き出された答えは、恐らく、これは余り追求されない事実かもしれないが、変則的に時計の針の進み方が変わると言う、斬新な発そ……

 と、唐突に思考を切り裂くが如く学校中に就学時間終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 暇つぶしの思考回路を少しの未練さえ抱かず颯爽と拭い捨てて、からっぽの鞄を小脇に抱えると今しがたまで授業を執り行っていた教師への低頭も程々に、浩一は掃除当番と言う大役を担っていることすら顧みることなく、一直線に木葉の元へと駆け出した。

 遠くから梓の怒号が矢のような鋭さを伴って飛んで来たが、身を翻し聞こえないフリをして走った。体内の酸素量が急速に薄くなっていくのを感じながら、浩一は今になって漸く木葉との約束があったからあんなにも授業時間が長く感じたのだと言う、納得の行く結論に辿り着いた。
 
 
* * *
 
 
 一日二日で様変わりするわけもなくそびえ立つ、校門近くのその大木に身体を預けて、うとうとと春の陽気に誘われたかのように木葉は眠っていた。正座を崩したような女の子らしい座り方をしていて、無防備であどけない表情が優しい夢を見ていることを予測させる。

 浩一は乱れた呼吸を整える間、木葉の姿を眺めた。

 肩程で切り揃えられた茶色い髪は相変わらず眩い光沢を放っている。すっきりとした鼻筋。柔らかそうな桜色の唇。頬から顎に掛けたラインは細い。肌は朝露のような透明さを携えた白さが一際目立つ。起伏のない平坦な身体は、それでも女の子らしい柔らかさを想起させたけれど、苗木を思わせるか細い四肢は、風に手折られはしないかと心を砕かねばならなぬ程だった。

 本当に起こしてしまうことが躊躇われるような、安らぎに満ちた寝顔。

 浩一はしかし、背後の校舎がにわかに喧騒に満ちて来たことを大義名分にして、木葉の肩に掌を置いた。華奢な彼女の肩は酷く心許なかった。

「んー……」

 二度三度と木葉の身体を揺らす浩一。しかしなかなか覚醒しない木葉。大木はそんな二人を見兼ねたかのように、一片の葉をその身から振るい落とした。空気抵抗に苛まれながらも新緑の眩しさを放つ葉は、ワルツのリズムを全身で奏でながらやがて木葉の頭頂部で骨を休めた。

「……あれ、こーいちさん?」

 寝起きの為か、何処か舌足らずに言葉を紡ぐ木葉。歌うように話すいつもより、その声色は反って大人びて聞こえた。

 だから、と言う言葉を遣って彼女の所為にするわけではないけれど、だから浩一は、何となく感じていた胸の痛みに意味のようなものを感じてしまわずには居られなかった。

 浩一がそうして自らの内に起こっている現象の不可思議に思考を奪われ、口を利くのも忘れていると、急速に覚醒して来た木葉は、遅れて現状を理解したようで、あっ、と息を呑んだかと思うと、慌てて詫びの言葉を紡ぎ出した。

「ごめんなさい!」

 その第一声で浩一も我に返ったが、しかし木葉の言葉を遮るだけの間隙が、彼女の並べ立てる言葉と言葉の間には存在しなかった。

「浩一さんと一緒に帰るということは浩一さんと一緒に居られるということだからそれなら折角だし色々なことをお話したいなぁと思って一生懸命話題を考えてたんですけどなかなか思いつかなくって困っていたらだんだんうとうとしちゃってだけどもうちょっとで浩一さんがいらっしゃると思ったら寝ちゃダメだって思って頑張って起きていたつもりだったんですけど、いつの」

「木葉ちゃん!」

 漸く彼女が息継ぎをしたので、間髪入れず浩一は声を上げる。

「……はい」

 と、木葉は躊躇いがちに返事をした。浩一が声を荒げ、怒るだけの非が自分にあると慮ったのだろう。身を強張らせ、浩一の次の言葉を待つ木葉を見て、浩一は彼女の抱く怖畏を肌で感じ、一呼吸置くと、怒っていないということが伝わるように優しい声色で告げた。

「木葉ちゃんは、つまり俺と帰ることを楽しみにしててくれたんだよな? なら、謝ってくれても、俺は悲しいだけなんだけどなぁ」

 態(わざ)と大袈裟な仕草を交えながら、締め括りにため息を一つ、これもまた芝居染みた身振りを加えて浩一は木葉の反応を待つ。

「……あ! はい、楽しみだったんです! すごく楽しみだったんです!」

 浩一に倣ってか、或いは自らの感じた感情を精一杯伝える為の術としてか、木葉は大きく頷きながら途切れたままになっていた弁明を続けようとするが、彼女のそういう呼吸を感じ取った浩一はそうさせてしまわないよう、木葉に手を差し伸べた。

「行こう、時間は有り余ってるわけじゃないし」

 木葉は自分のそれより倍近く大きい掌に唖然とし、喉まで出かけた言葉を飲み込まざるを得なくなって暫し呆然としたが、すぐに伝えなければならないと感じていた言葉があったことを思い出して告げようとするも、先の浩一の言葉や掌に、綺麗に意識を奪われてしまったからだろうか、何を言わなければならなかったのかを自失し、意識に不可解を残しつつ、差し出された掌の意味も解らないまま、しかし身体の自然に動くまま、浩一の手に自分のそれを重ねた。

 触れたと思った数瞬の後に、木葉は自分の掌に繊細な圧力と少しだけ強引な引力を感じた。感じた次の瞬間には、自分が彼の引力で立ち上がることが出来た事実を知り、それからもう少し遅れて、それまで誰に対しても踏み込んだ事の無かった距離まで接近していることを感知した。

 見上げて話していた浩一の顔が既に視界から消え、恐らくは彼の胸に額が触れている。

 その時、音の溢れ返った世界でしかし二人には、夜の闇で覆われた森の持つ静謐が訪れ、互いの鼓動や呼吸の音すらを全くの無に帰してしまっていた。

「あ、ごめん」

 慌てて距離を取り、俯く木葉の様子を見て浩一は咄嗟に詫びた。

「い、いえ!」

 そして木葉も、反射的に恐縮した。

 果たしてまた、沈黙の到来。

 木葉は名状し難い雰囲気が二人の間に流れてしまっていることを敏感に感じ取り、その居心地の悪さを取り繕うように声を無理矢理弾ませた。

「……それより、帰りましょう!」

 浩一も確かな気まずさを感じていたので、不自然な木葉の態度にもあえて触れることをせず、彼自身も無理矢理木葉のそれに付き合った。

「よし、行こう!」

 浩一は木葉の無防備な掌をもう一度握り締めると、行く当てもないのに、兎に角走り出した。本当は木葉の体力だとか気持ちをもっと良く考えるべきなのだろう。しかし繋いでしまった掌に感じる彼女の微弱な熱や躊躇いがちな圧力は、その意味を考えてしまうとこの状況が元の木阿弥になりそうで怖かった。

 明滅し、間もなく赤に変わりそうな信号機を間一髪で駆け抜けても尚、二人の足は止まることなく地を蹴っている。

 浩一はほんの一瞬だけ木葉を振り向いた。息苦しそうな表情ではあるけれど、何処と無く心地良さを感じているような顔。少なくともこうしていることに苦痛を感じているわけではないと知って、浩一も嬉しくなって、無意識に繋ぐ掌に力を込めた。

 楽しい時間にしたい。

 浩一は、今度は確かに握り返してくれた木葉の手の圧力を感じながら漠然と、しかし明確にそんなことを思っていた。


 

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2009年10月28日:デザイン改修
2005年07月31日:加筆修正