長編恋愛小説>Love-Songs[木葉]>第02話「偶然の出逢い」

偶然の出逢い



 早い話が遅刻だった。食卓を彩るサラダやオレンジジュースには目もくれず、ただ茶色に焦げるトーストだけを取り、それを咥えて家を飛び出す。

 玄関を開けると、庭の緑の葉一枚一枚に浮かぶ瑞々しい雫が放つ、朝の空気が一瞬にして全身を包み込む。一日の始まりに相応しい空気の質感に満ち満ちている。しかし、そ の端々を仔細に感じ取っている場合では無論、ない。

「彼」は慌てて走り出す。

彼の名前は佐藤浩一(さとう こういち)。桜花高等学校の二年生だ。

 息を切らせながら、2週間ぶりの通学路を走り抜ける。そう、今日が二年生の始業式なのだ。始業式だからこそ、遅刻だけはなんとしても避けなければならない。

 道々時間の経過を気に留めながらも、一歩たりとも休まずに足の運動を続ける。

 後は交差点を右折し、真っ直ぐ行けば良い。

 ふと、遠くにある大木が浩一の視線を奪った。浩一の学校のトレードマークであるその大木は、 校門を抜けてすぐの場所に植えられており、朝も昼も夕方も、生徒たちの生活を穏やかに見守っている。大木は今日も朝日を受けて 緑の艶を誇り、包み込むような包容力を湛え、悠然と立っていた。

 浩一は走りながら、間近に迫りつつある見慣れた大木のてっぺんを見上げつつ、校門を遅刻間際で駆け抜け 、その勢いでクラス発表が掲示してある玄関横の掲示板まで向かおう……と視線を前に戻す、その幾ばくもない数瞬のうちに、 視界に過ぎる何か―――どうやら人のようだ、更に言えば、制服を着用していない背の小さな女の子が、大木の下で、見上げるように佇んでいることを認識した。

 浩一は 見慣れた大木に、見慣れない少女が、やはり校内にいるにしては不自然な私服姿で、それも始業式開始直前の緊迫した今この瞬間に、のんびりと大木を見上げる姿に、自らが急いでいたこと をも忘れて、その少女に意識を奪われた。

 殆ど無意識で、彼女から数歩程度走り過ぎた道を引き返し、少女の横顔を見つめた。

 幹を枝を、優しい眼差しで見つめ微笑む仕種は、大木と会話している のではないかと瞬時に空想させる程に饒舌で……、だからだろうか。浩一はまた、いつの間にか胸に浮かんだ疑問を素直に問いかけていた。

「……どうしたの? もう、始業式始まっちゃうよ?」

 発音して初めて、浩一は自分が少女に話しかけたのだと知った。

 声をかけた本人でさえその事実に思い至るまで一拍、二泊の間が空いたのだから、当然声をかけられた側であるところの少女は、更にもう一泊遅れて、大木から視線を外し振り返った。

「……しぎょーしき?」

 浩一の問いかけをそのまま繰り返し、小さく首を傾げ、少しの間困ったような表情を浮かべたが、やがて困った顔のまま微笑みを浮かべた。

 俄かに通り抜けた微風が、 少女の肩ほどまでにある、茶色い髪を乗せ、躍らせた。浩一は彼女の困った顔をむりやりに微笑み変えたような、ぎこちない笑みに、安心を与えるように、意識して彼女の 視線と向き合って、会話を先に進めた。

「そう、始業式」

 浩一は少女がなるべく怖い思いをしないで済むように、物理的に多少の距離を置き、笑顔で頷いた。女の子は目を瞬(しばた)かせると、言い辛そうに聞き返す。

「……あの『しぎょーしき』って何ですか?」

 といって、やはりまた、小さく首を傾げて問いに問い返し、微苦笑を浮かべる。

 浩一は瞬間、少女が自分をからかっているのかと思ったが、その考えは 問い返す声の調子や、見つめ返してくるブラウンの瞳が澄んでいて、偽りがないことを雄弁に語っていて、だから苦笑を浮かべ、取り敢えず話題の転換を図る。

「はは…。君、名前は?」

 浩一は笑ってその場を誤魔化すと、また違う質問をした。女の子は浩一の微妙な態度を少しも気にせず、元気に答える。

「木葉ですっ」

 一層笑顔が愛らしくなる。浩一も自己紹介する。

「俺、佐藤浩一。次からは『浩一』って呼んでくれよな?」

 少女は「はいっ」と頷く。

 浩一は木葉の真っ直ぐな笑顔を受けて、より彼女のことを知りたいと思った。この場所から動けない理由は木葉の存在なのだと、今になって却って強く感じた。

 木葉の姿をもう一度良く見てみる。

 肩の上まである茶色い髪と、ブラウンの大きな瞳。笑顔が似合う、可愛らしい女の子だ。声は少し高めで、それも彼女の魅力を引き立てている。身長は150cmあるか、ないかだろう。

「どうしました?」

 木葉は屈託なく笑っていた。浩一は何でもないと、また誤魔化した。

 その時、始業式終了を知らせるチャイムが校内に鳴り響いた。浩一は校舎に向かって小さな舌打ちをすると、木葉に振り返って言った。

「…ごめん、俺、そろそろ教室に行かなきゃ」

 浩一は出来るだけ優しい笑みを浮かべて言った。

「あっ、そうですかぁー…」

 木葉はそんな浩一に、残念そうな笑顔を浮かべた。

「それじゃあね、木葉ちゃん」

 浩一は後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも、木葉に手を振って一目散に教室へと向かって走り出した。

 木葉はその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。


* * *


 始業式に出席せず、教室で一人待つという行為は、担任を怒らせ、クラスメイト達に好意を抱かせる結果となった。浩一は終始苦笑していた。帰りのホームルーム中も、表情は笑顔で、頭の中では木葉を考えていた。

 …何も知らない木葉は、普通の人と違う感じがした。一般常識を何も知らないとか、そういうことじゃなく、ただ、雰囲気がそう、浩一に囁いていた。

『もっと、木葉ちゃんのことが知りたいな…』

 浩一が木葉のことばかり考えていると、早々にホームルームは終り、あとは下校するだけとなった。浩一は木葉の元に行きたくて、素早い動きで用意する。

 余りゆっくりしていると、『彼女』に捕まってしまう…。

「…どうして、そんなに急いでるのかな?」

 突然背後から抑揚のない冷たい声がした。

「…いや、だってほら、梓が来るから…って、えっ?!」

 浩一は慌てて振り返り、声の主が『梓』と呼んだ人物であることを確認すると、三秒程静止した後、何事もなかったかのように教室の外へと向かった。が。案の定『梓』に捕まる。

「何で無視するの〜?」

 頬をぷくっ、と膨らまして怒っている彼女の名前は浅丘 梓(あさおか あずさ)。浩一の幼なじみだ。

「私が何か、危害を加えるとでも思ったの?」

 腰まである、長く黒い髪。その先を青いバンドで束ねている。髪と同じ深い黒の瞳には今、浩一が映っている。梓の瞳に映る浩一はワザとらしく視線を外していた。

「まあ何だ、今日はもう終わりだし、早速颯爽と帰ろうかなー、なんて思ってたんだよ!」

 浩一は大声でわざとらしい笑い声を上げた。梓はそんな彼の態度を見て一層の疑惑を抱いた。

「…本当に?」

 更に一歩詰め寄って、浩一の顔を覗き込み、念を押して訊く。

「ああ、ホントホント」

 浩一は吐息がかかる程間近に迫った梓から逃げるように顔を逸らすと、窮地から脱する為に話題転換を図った。

「颯爽で思い出したが今日は妹の一周忌なんだ、だからとても早く帰りたい、この気持ちを察そうな、梓」

 颯爽だけにね、と呟く浩一。

 そんな浩一を暫く黙って睨んでいた梓も、やがて大きなため息をつくと、呆れ顔で言った。

「取りあえず、杏華ちゃんとは朝一緒に登校したから生きてるとして、これ以上何聞いても無駄っぽいから諦めるよ」

 目と鼻の先にあった梓の顔が離れた気配を確認してから、浩一は全身の力を秘密裏に抜くと、鞄を左手から右手に持ち替えた。

「じゃ、一緒に帰りましょうか?」

 梓は浩一に自分の鞄を差し出すと、ニッコリ微笑んで言った。

「…あぁー、うん。帰るか」

 浩一は差し出された梓の鞄を素直に受け取って、軽い足取りで先に教室を出て行く梓を見送ると、窓の外に木葉の姿を求め、二人で言葉を交わした大木に視線を向けた。

「浩一ー?」

 しかし間もなく、教室の外から梓の声がした。

 一瞬だけ視界に映った木葉は、朝出逢った時と同じ場所に、同じような姿勢で立っていた。

 浩一は木葉のことを気がかりに思いながら、梓の催促に「はい只今ー」と腰の低い態度で返事をして彼女の後を追った。


 

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2009年10月28日:加筆修正
2009年10月28日:デザイン改修
2004年10月16日:加筆修正