長編恋愛小説>二人のDistance>第03話「半径45センチとあともう5センチメートル」

半径45センチとあともう5センチメートル



 最低としか言いようのない状況が起こってしまった。

 それも不可避の、望みすら抱けないような事態なら、出来れば遭遇したはくないけれど、まだ諦めもつく。だろうと思う。

 けれど、この戯曲は私の立ち回り次第で充分避けて通れたはずだ……。

 この日最後の講義が終わって三十分程経った教室で、私は一人残り、窓の外に降る雨の雫たちを恨めしく思いながら睥睨していた。

 いつだったか、こんな風に人を帰さない為に降るような雨のことを「遣らずの雨」って呼ぶんだよ、と親友の古藤海姫が言っていたことを不意に思い出す。

 こんな状況だから、天候ももしかしたら意識みたいなものを持っていて、敢えて意地悪をしてきているんじゃないだろうか、なんて被害妄想を抱いてしまう。

 ……そういえば、こんな頼りたい時に限って海姫は講義をサボっている。というか、この授業に彼女が出ている所を、後期は一回も見かけていないような気がする。幾ら出席を取らないからと言って、ちょっとサボり過ぎではないだろうか……。

 九月に入ってすぐの頃はまだ夏の余韻が残っていたけれど、中旬から十月の頭にかけて降った雨が、また巡り来る冬の無慈悲な冷気の前奏を紡ぎ始めた。

 暫く千枚通しみたいな視線を窓の外に投げかけていたけれど、雨へ向かってあてつけのようなため息を一つつくと、今や行方知れずとなった均一価格の透明なビニール傘への、その値段位の僅かな未練を断ち切るように勢い良く立ち上がり、お気に入りのトートバッグを肩にかけて教室を出る。

 扉を開け、一歩廊下へ出るとそこはもう人気もなく、また教室に比べてやや寒く、知らぬ間に詰め寄っていた無口な冷気の横暴は、肌が泡立つ予感を全身に駆け巡らせた。

 その予感だけで到来した軽い震えを押し殺して、校門を目指し階下に誘う階段に向かって一歩一歩歩み始める。

 十月も残す所後三日。神様がいよいよお戻りになる日を目前に控えた今日も今日とて雨が降り、地を穿つ雨音が世界に響き渡っている。

 もう暫くは、この雨もやみそうにない。

 この時期は一雨毎に寒くなるというけれど、この様子だと明日は今日より寒くなる気がするから、秋口に買ったコートを着る予定も、朝ベッドから出られなくなる自堕落も、凜と鳴る鈴の音色のように澄んだ大気の感触も、心の何処かでほんの少しだけ、待ち侘びている自分に気付く。

 だけど……。

「……ツイてないなぁ」

 私は私以外には聞こえないくらい小さな声で、私を蝕む諸々について不満を呟いた。

 ちょっと立ち止まって教室の入口を振り返る。

 教室前方と後方の入口脇に設置された傘立てには、男性物の嘗てはそれなりの姿をしていたのであろう、しっかりとした黒い傘が骨数本を折った無惨な姿で佇んでいて、見向きもされない物悲しさを切々と訴えていた。

 他にも数本の傘たちが、持ち主を待つ迷子になって早数ヶ月が過ぎているであろうことを、煤汚れた姿で物語っている。

 授業の前に、私は確かにあの傘立てに私の傘をさして、そのまま講義に出席した。

 間違えもしない、教室後方の傘立て、その角に確かにさしたのだ。

 しかし、講義終了後、追いつけなかった板書の残りを写して数分居残り、いよいよ帰りの準備をして席を立ち、傘立てに移動した時には、既に私の傘の姿はなかった。

 二つの傘立てをくまなく探したけれど、やはり彼はもう、何処にもいなかった。

 回想するだに悲しい気持ちが胸の中を支配して行く。

 教室に持ち込んだら場所を取っちゃうなーと思って傘立てにさしたけれど、こんなことになるならば、こんなに悲しくなるならば、教室まで持ち込んでいたら良かった。

 雨のせいか受講する人も疎らで、空席ばかりだったから、誰にも迷惑をかけなかったのに……。

 と、このように振り返った風景が色々な意味で悲しくて、私はもう一度溜め息をつく。

 雨脚も衰える気配がまるでないから、傘なしでどうやって帰ろう。

 階段を下り、踊り場にしつらえられた窓の外にちらりと視線を投げ掛けて、教室でこの雨がやむことを待っていた十数分間と何も変わっていないことを悟り、その景色を見なかったことにするつもりで背を向けると、次の階段を下り始める。

 悲しい時には悲しいことばかりを思い出してしまうもので、この日一日、知り合いと少しも会わなかったな、と思い至る。

 教室の移動中やランチの時に数人の知り合いと擦れ違ったくらいで、今日はまだ、殆ど人と会話をしていなかった。

(なんだか、寂しいな……)

 思えばいつも、海姫がいた。まるで示し合わせたみたいに講義もいくつか被っていたし、ランチの時間は新しいお店の開拓に枚挙のいとまもなかった。

(……ああ)

 今更ながらに思い知る。否、いつだってこうした何気ない瞬間にこそ、彼女の存在の大きさを再認識する。

 いつだって思いやりがあって、真っ直ぐで正しくないことは正しくないと忌憚なく伝えてくれる。

 そんな彼女の存在にどれだけ助けられただろう。心細い今だって、思えばそれだけで温かい気持ちになる。

 それに、達也くんのことだって、まるで彼女自身のことのように共感してくれたり、どうすれば彼への気持ちを告げられるか沢山考えては一つずつ試そうと励ましてくれた。それなのに私と来たら、希望に伴うかも知れない痛みのことばかりが渦巻いて、この手を彼に伸ばせない。

 臆病だと反省する。けれど、後悔だけが先立って、身動きだけが取り得ない。

 いつしか階段は終わり、無意識のうちに廊下を進んで出口にまでたどり着いていた。

 開け放たれていた扉の向こうでは、まばら以下の人の姿が、雨のけぶる、まるで濃霧のような密度に圧倒されて、稀薄に移ろっていた。

 庇の下、この雨に為す術もなく佇んでいると、全く知らない、恐らくは他学科の生徒であろう人がたまたま学校の敷地の、この建物より奥にある建物から、校門に向けて歩いて来た。

 私が何気なく見ていると、彼女もちらりと視線をくれたが、またすぐ前を向くと変わらぬ足取りで私の前を通り過ぎて行った。

 また、雨音だけが響く世界に一人きりになって、取り残されて、庇より先にある空を見上げて見た。

 鈍色の雲に覆われた空がしくしくと霧雨を散らし、本当に「家に帰らせない」ために降っているような印象を醸し出している。

 ちらり、と肩にかけてトートバッグを見る。

 面積的に、やはり精々頭を隠す程度にしか使えない。

 髪はシュシュでまとめているから、幾分乱れも抑えられるだろう。くるくるになるのはこの際目を瞑ろう。今日はもう、帰ってお風呂に浸かるだけだから。

 問題は……、足下だ。

 私はどんな靴を履いているか思い出しながら、靴に視線を落とす。

 ヒールが5センチあるピンク……、だけどどちらかと言えばヌードカラーに近い色彩で、トゥの部分に真珠みたいな丸い石が散らばっているパンプスで、おろしてからまだ数回しか履いていないから、歩き辛さが少なからず残っている。

 その靴に合わせているのは黒のレギンスで、膝下までの丈で、裾の部分にレースがあしらわれている。

 デニムを穿いていれば良かったのだけど、こんな試練の待ち構える日に限ってワンピースを着てきている。

 取り分けお気に入り、という程のものではないから濡れてしまうのはやむを得ないと思えるけれど、それほど厚手の生地でもなく、色も水色に小さい白水玉が散らばっているデザインだから、下着が透けて見えないか、かなりの不安がある。

 まあでも、そうなったらデニムジャケットの前をしめよう。というか今から閉めてしまえば良いんだ!

 私は気付いて、いそいそと前のボタンを閉める。

 これらのファッションから鑑みるに、畢竟二、三百メートル先にあるコンビニまで走って行くのは非常に難しいと思われる。

 下手をしたら道半ばで転んでしまうかもしれない。否、どちらかと言えば転ぶ自信がある。

 自分では良く解らないけれど、海姫にはドジをする度に「期待を裏切らない」ってからかわれるから……、この状況では走り出してはいけないと、本能が訴えかけている。

 だけどいつまでも立ち往生しているわけにも行かないし……、どうしよう。負け戦と知りつつも、ここは一戦交えるべきだろうか。

 思案している間にも、雨の雫から枝別れした、雫とさえ言えない細かい水滴が風に乗って肌に触れるから、その冷たさに、もう巡り会えないであろうあの均一価格のビニール傘が思い起こされる。

 思い起こしたら、止めどもない悲しみが堰を切って溢れ出す。

 別に特別な傘なんかじゃない。買った経緯だって覚えていない、恐らくはかつて突然降り出した雨に、必要に迫られ買っただけであろうただの傘だけど、いなくなった経緯を考えると、どうしても嫌な物語ばかり思い浮かんで、想像に過ぎないはずの悪意に胸が締め付けられる。

 そんなことばかり考えていたら、なんだか泣けて来て、目に溜まりそうな涙を増やすまいと、ぎゅっと目を瞑ってやり過ごす。

 自然と身体に力が入って、顔は俯き肩は上がり、掌は無意識下で握り締められていて、なけなしの筋肉は総動員され、死力を尽くしてそれを阻止している。

 いっそこのまま雨に打たれながら帰っていけば、こんなにまで我慢しなくても良いかも知れない。どうせ雨も涙も大差ない。だとしたら雨だって何も問題ないんじゃないか。いや、むしろ都合が良いかもしれない……。

 私は自棄になって一歩足を踏み出した。

 想像していたよりも冷たい雨の粒が、喜ばしくない瞬間に吹き抜ける風に煽られて飛礫のような硬さで叩きつけてくる。

 またその諸々に目をきつく瞑る「瑛ちゃん?」と達也くんの声が聞こえてきて、頭上から雨と雨の粒を遮るものとの反発し合う音が聞こえ始め、冷たかった水滴はもう私には降っていなかった。

 瞑った目を、何故だか温かさを感じる右側だけ片目をうっすら開けて見ると、すぐ隣に誰かの身体が見えた。

 見えた数瞬後には両目を開きその身体の持ち主の顔を見上げ、見上げる間に男の人だということと、知っている匂いで知っている服だということ、紐付く思い出や一方的に抱く思いも期待も見返りも、一瞬にも満たない刹那に怒濤の如く到来し、それらに紛うことなき現実に直面する、一歩手前で既に私は無意識にその名前を呼んでいた。

「達也くん……!」

 果たして彼は―――。

「うん」

 中川達也その人だった。

「どうして……?」

 と、問い掛ける自分の声がかなり震えていることに気付く。

 それは達也くんも一緒だったようで、いつもより大きく目を見開いた、ささやかながらも驚きの表情を浮かべていた。

「瑛ちゃん、大丈夫?」

 干涸びた大地のような心を潤す優しい思いやりに、自然無理矢理押し殺していた涙が再び沸き出してくる予感を感じ、咄嗟に私は顔を伏せた。

「……大丈夫」

 我ながら説得力のない言葉の発し方だと自省しながらも一度表した言葉は取り消せない。

 幾許かの間を沈黙で過ごし、やがて達也くんは「そっか」と呟いた。

 出来ればさっきの言葉をなかったことにしたかった私にとって、達也くんの配慮は非常に有り難かった。

 心の中で感謝しつつ、もう数瞬置いて、なんとか涙が引いたから、私は出来る限り自然な笑顔を浮かべながら顔を上げた。

「ありがとう」

 私はどうしようもない感情を端的な言葉に万感を込めて告げた。

 傘を差し掛けてくれたことも、心配してくれたことも、察しながらも聞かずにいてくれたことも……、いっぱいいっぱい、ありがとう。

 そんな思いを一言に込めて。

 多分きっと上手く笑えてなかったから、達也くんはちょっとだけ困った表情を浮かべながらも頷くだけで応えてくれる。

「あーあ、ちょっと濡れちゃったね」

 言いながら、達也くんはバッグの中から綺麗に折り畳まれたハンカチを取り出して、私に差し出してくれた。

「はい、使って?」

 優しい声と共に渡されたハンカチを受け取り、柔らかな手触りを指先に感じた瞬間、どうしてだろう、度々抑え込んで、なかったことにしたはずの涙が初めに一粒、続けて一粒と、実に呆気なく零れ落ち始めた。


「……あれ?」

 覚えずとは言え、一度止め損ねた涙の雫は最早止めどなく溢れ、次から次へと矢継ぎ早に零れ落ちる。

 意識した今も思い通りには止められない涙に戸惑っていると、達也くんは唐突に、一度渡してくれたハンカチを私の中途半端に曲げたままの手から取り戻すと、私の頬に軽く押し当てて、優しい手つきでぽん、ぽん、と抑えてくれた。

 恥ずかしいし、申し訳ないしなんとかしなきゃと思うのに、私の身体は成す術も打つ手もないかのように、単純な硬直をほどけない。

「大丈夫だから」

 達也くんはぽつりと呟いた。

 人の涙を拭いながら「泣かなくて良いよ?」と、人を思い遣る言葉をかけて、尚も微笑み―――ちょっと困った形の眉だったけど―――を浮かべていられるなんて、本当に、達也くんは、すごい。

 私はつらつらとまるで人事みたいに現状を把握していく。

 ああ、達也くんごめんね。こんな所人に見られたら恥ずかしいよね。カップルの痴話喧嘩で達也くんが私を泣かせたみたいに見えてるかもしれないよね。そもそもカップルでもないし、そういう風に見られるの、きっと絶対嫌だよね。それでも……、それでもこうしていてくれて、本当にありがとう。

 大好き。



 そう、声に出さずに心の中で呟いて、ああいっそのこと本当に言えたら言ってしまえたら良いのにと、意気地の無さにまた立ち返る。

 今日の諸々を海姫に話して聞かせたら、きっと「何処から叱ったら良いのか解らない」って言いそうだな。それからこれみよがしな溜め息一つついたら「良い? 瑛」なんて前置きをして、多分今日の最初からを律義に順番に叱ってくれるだろうと思う。私も今日の私はまるっきりないなって思うから、そうしてくれたら嬉しいなって、そう思う。

 今まで泣いていたのに、私は何故かおかしくなって泣きながら笑ってしまう。

 私が空想に耽っている間も絶えず涙を拭いてくれていた達也くんはちょっとビックリして動きを止めた。

 私今変な子だ、ってまたちょっとおかしくなって、達也くんのハンカチを握る手に触れてハンカチをもう一度受け取りながら「もう大丈夫」と告げる。

「達也くん、ありがとう」

 そういう私の顔を達也くんはじっと見て、数瞬後には「良かった」と言って、それから何故か合わせていた視線を伏せた。

 不思議に思って達也くんの顔を見ると、心なしか頬も耳も赤く染まっているような気がした。

 気がした瞬間掌に動く何かを感じ、指先でそれが何か、神経だけで感じ確かめてみる。……までもなく、私は達也くんの手に触れていることに思い至る。
「……!」

 焦った私は息をのみながら急に手を放す。なんとかハンカチだけは落とさないように死守したものの、こんな態度はないなと思い直し必死に言葉を探す。

「あ! えっとそのそうだよね? あああの急に泣いちゃってごめんね?! これありがとう、洗って返すから貸してください!」

 途中どもった気がするけど考えながら話しているから仕方ないとあえて前向きに考える……しかないじゃん! って客観的に自分にツッコミを入れて気を紛らわす。

「えええああうん。きっ気にしないで?」

 と、達也くんまで普段の落ち着きをなくして口早に告げる。

 それだけでもう、お互いにかけるべき言葉を見失って、またうつむいて沈黙する。

 私は取りあえず抱き締めるみたいに両手で握り締めていたハンカチを、風の冷たさにかじかんだ手で思い通りに動かない、ぎこちない動作でノロノロとバッグにしまう。

 或いはその後のこれからを空想したからだったのだろうか。

 私がハンカチをしまい終わるタイミングを見計らったのだろう、手持ちぶさたでそわそわしていた達也くんはそれから一拍おいて「……じゃあ」と切り出した。

「行こうか」

 向かい合う形で話していた体勢から、達也くんがくるりと私の右隣りに来る。

 その間ですら達也くんは私が傘からなるべく外れないように、自分を顧みずその傘の大部分を傾けてくれる。

 この時初めて、私は差し掛けてくれる傘を目に入れた。

 直径90センチくらいの透明なビニール傘で、二人で使うには手狭だろう。

 持ち手は白く、ビニールははがされていなくて、端が少し破れて始めている。

 きっと百均か雨の日にドラッグストアの軒先で売られている傘か、いずれかだろう。

 私の傘と違うのは、持ち手の部分にロゴが入っていない部分。

 ふと、ロゴの有無を無意識に確認している自分の存在を振り返って、自己嫌悪が胸中に去来する。

 普段気にしないようなところを、普段では感じないような暗い思いで気にしてしまうなんて。

 ……あんなことがあった後でナーバスになっているのだろうと、自分を擁護しなければ平静を保っていられない程に、この嫌悪感は正直に言って、きつい。

「行こう」

 達也くんは変わらぬ調子で語りかけてくれる。

 一人でやり過ごすにはきついこの悪感情を、弱いといわれても仕方がないけれど、それでも早く、一秒でも早く消してしまうには、達也くんの声や笑顔や仕草は温かくて不覚にもまた、涙腺が緩む。

「……うん」

 もう、迷惑も心配をかけないように。決意だけで、必ずしも身体が言うことを聞いてくれるわけではないけれど、きっと、達也くんの力のお陰で今度はもう、不用意な涙は零れなかった。

 私の歩き出す意思を汲み取って、達也くんはゆっくりと歩き出した。

「瑛ちゃんの家って、何処だっけ?」

 校門を通過した辺りで、取り敢えず駅のある方向に曲がって数歩歩いたところで、達也くんが問いかけてくる。

「えっと……」

 私は軽く帰路を思い浮かべつつ、3駅隣の駅前から、徒歩で7分位歩くことを大雑把に伝える。

「そっか」

 と、一つ頷いて、達也くんは特に質問を重ねることなく駅までの道のりをなぞるように歩いている。

 しばし無言のひと時が訪れる。

 訪れてふと、この状況の名前が唐突に思い浮かぶ。

 相合傘……!

「……っ!」

 思わず、息を呑む。

 ちょっと不審な挙動が表に出た私を、達也くんは「うん?」と首を傾げ、視線を寄越すことで問う。

「うんん、なんでもない!」

 慌てて否定する私。

 あはは、と自分比1.5倍の可愛らしさで笑って誤魔化して、視線を外してこの好機について思案する。

 そう、まさしく好機。この状況をそう呼ばずしてなんと呼べば良いのだろう。

 そーっと、あたかも前を向いているんだけど、ちらっと間近に迫る車道の交通事情が気になりましたよという体で、達也くんの方を盗み見る。

 すると絶妙にお互いのパーソナルスペースを侵犯しないギリギリの距離感を保って並んでいた。

 こっ、この距離感は恥ずかしい……っ!

 昔読んだ少女漫画で主人公の男女がそれまでの事件を乗り越え、雨の中相合傘で帰路につくシーンがフラッシュバックし、子供の時分、その一コマに描かれた二人の距離感に読んでるだけなのに恥ずかしくなってドキドキした記憶や、感情やその時聴いていた音楽なんかが一瞬にして一遍に再生される。

 思い起こせば不思議なもので、今置かれている状況に、その時の音楽がBGMとして妙にマッチしているように思われる。

 なんだか更にドキドキする要素が増えて墓穴を掘ったいたたまれない気持ちすら沸き上がって来て、感情が混乱してしまう。

 慌ただしい気持ちに整理をつけたいと思ったのだろう、私は覚えず口を開いた。

「達也くん!」

 思いの外声量が大きく、また唐突だったと発音して早速現実にも一つ、混乱を招く。

「うん?」

 達也くんと視線が合う。

 え? あれ、何言おうと思ってたんだっけ、相合傘の漫画のことを考えてて? それでそれがなんだっけ?

「……危ない!」

 と、次の瞬間右腕を急に引張られて立ち止まる。

 車のクラクションが二つ、苛立たしげに鳴り響いて、余韻を残し走り去って行く。

 どうやらいつの間にか横断歩道の前まで来ていて、赤信号だったことに気付いていなかったらしい。

 心が不在だったとはいえ注意散漫にも程があると、背筋に走る冷たい気配に冷静を呼び起こされる。

「今のはちょっと、危なかったかな?」

 達也くんも苦笑しながら注意してくれる。

「ご、ごめんなさい……」

 私は半ば反射で謝る。

「今日の瑛ちゃんは元気がなくて、放って置けないね?」

 と、達也くんは優しく声をかけてくれる。
 きっと当人はその配慮や発音の癖が、殺し文句を一層強力にしていることに気付いていない。

 だけどそんな所がどうしようもなく、私を構成する細胞総てを沸騰させるのだ。

 身体中の火照りや思いの暴走に絆され、もう何度目かも解らない思考停止に追いやられた私は、ただぼぅっと達也くんの目を見詰めてしまう。

 普段なら目なんて5秒以上合わせているなんて恥ずかし過ぎて出来ないけど、この瞬間の私は見るつもりもなく見ているからいつまでも見詰め続けられると思う。

 見詰める細い切れ長の目の奥には、綺麗な透明感を保つ瞳があって、どんな奇跡か解らないけど、こんな綺麗な目が今私を見ているだなんて、ちょっと急には信じられない。

「……あ! ごめんね!」

 と、至極唐突に達也くんが私の腕から手を離す。

 達也くんの掌が触れていた肘のちょっと上と二の腕が拘束からの解放感で自由を感じ、また同時に皮膚には達也くんの体温が返ってくっきりと残っていて、そこだけ、達也くんの掌の形にやけどの跡でも残りそうな程に……熱い。

 無意識にその部分にもう片方の手を当ててぎゅっと握り締める。
 達也くんの掌の熱が残っているうちに触れると、まるで手を繋ぐみたいな錯覚を感じられて、もっとドキドキする。

 達也くんと手を繋ぐとひょっとしたらこんなに掌が熱くなるのかな。手に汗をかく程度じゃ済まなくて、自分の熱で全身やけどしちゃうかも。それにしても達也くんの掌ってとても大きいな。なんだかすごく頼もしいな。

「ごめんね、痛かった?」

 達也くんは不埒な私の戯れを好意的に誤解してくれるのみならず、真剣に心配して、更には謝ってくれる。

「全然! 助けてくれてありがとう」

 私はだから、心の底から出せる分だけの誠意を、ありったけ届けるつもりで感謝する。

「良かった」

 達也くんはほっと胸を撫で下ろす仕草を見せる。

 ニッコリ笑っているから、つられて私も笑う。

 と、不意に達也くんのその仕草に違和感を覚えた。

 なんだろう、特に変な所なんてないのに……。

 と、達也くんの顔に一筋の涙が流れ落ちた。

 咄嗟の出来事に息を飲むことしか出来ない私。

 達也くんはそれを特に気に止めた素振りもなく、手の甲で拭い取って「青になった」と無邪気に言った。

 達也くんが見上げた先には想像通り、歩行者用の信号が青に変わっていた。

 つられて信号を見上げていた私に達也くんは行こう、と目で訴えかける。

「う、うん」

 私は先の達也くんの涙の訳が判らなくて反応らしい反応を返せない。

 フリーズしたまま達也くんの顔を見上げているとまた一筋の涙が流れ、立て続けに額からもう一筋の涙が零れ落ちた。

「……え?」

 額から涙?

 ちょっと帰って来た私の意識が俄かに閃きを呼び起こし、先ほどにも感じた違和感の正体を暴き出した。

「結構降るね?」

 言ってまた、達也くんは手の甲でそれらを拭う。

 そう、涙に見えたものは全部、雨の雫だったのだ。

 見れば達也くんの右肩はぐっしょりと雨に濡れ、トレンチコートの生地の色が最早変色していると言っても過言ではない程の惨状だった。

「達也くん、肩……」

 思わず指摘すると達也くんが私の視線を辿って自分の濡れた肩を見て「あれ?」と首を捻った。

「濡れちゃってるね」

 特に気にした風もなく肯定する。

「待って」

 私は慌ててバッグの中を漁り、ハンカチを取り出して差し出す。

「これ、使って!」

 はい、と目の前に差し出したのに、達也くんは不思議そうな顔をしてなかなか受け取ってくれない。

 私は焦って、あれ? って思ったけど、もうなんだかすごく肩が濡れてることが気になって仕方なくて、申し訳なくって、お節介だと思いつつその肩にハンカチを押し当てて、ぽんぽんと軽く叩くようにして拭いて行く。

 だけどそれももう意味がない程に雨に濡れていて、長い間雨にさらされていたことを物語っていて、私が混乱している間もずっと、私のことを気にかけて傘を傾けてくれてたんだなって、遅ればせながら思い知る。

 なんて優しい人なんだろう。優しさの質が他の人と根本的に違う気がする。達也くんの思いやりは本心からそう思っているように感じられる。

 そういう意味では、海姫も言葉は選ばないけど、いつだって本質は相手のことを真に考えているってこと、いつも一緒にいるから解る。

 本当に私は恵まれている。いつかもっと大人になって、人の喜びや痛みを本心から共感出来るようになって、困っている人には必要なものを分け合えて、喜んでいる人とはもっともっと笑えるように、心の距離で近くにいたい。

「ありがとう、瑛ちゃん」

 また意識が別の所に旅立っていた私を、達也くんが呼び戻してくれた。

「あ、うんん、全然!」

 呼び戻されて気付いたけど、達也くんにすごく近付いていたから、達也くんの顔がすごく近くて……、ちょっとつま先立てばキスも出来るくらい近くて、それに気付いて慌てて一歩距離を取る。

 ハンカチを両手で握り締めて「さっきは達也くんが拭いてくれたから、私も……」と言いながら、ん? 拭いてくれた……?

 思い至って手中にあるそれに視線を落とすと果たして。

「ひゃ?!」

 ってこれ……達也くんのハンカチ!

 ななな、なんてこと……! こっ、これは非常になんというか……致命的というか恥迷的というか……!

 あわあわしてる私を見て、ついに達也くんは吹き出した。

「はは……っ!」

 達也くん気付いてたんだ!

 その笑い方で解る! そういえばハンカチ差し出した時微妙な表情してたし!

「ご、ごめんねこれ達也くんの……」

 気まずくなって目を合わせられないから、取りあえず下を向いておく。

 それから暫く、達也くんはどうにもツボにハマったらしく、くつくつと俯きつつ笑いを噛み殺しながら笑って、一区切りついたのか顔を上げる。

「……笑ってごめんね?」

 と、まだ若干笑いを引きずった声色で言う。

「でも、可愛かったから」

 私が「うんん」と言いかけた所で達也くんが何か言った。自分の発音と被っていて殆ど聞き取れなかったけど……今もしかして、幻聴じゃないとしたら、可愛いって言ってくれたの……?

「瑛ちゃん気付いた瞬間、目が白黒しててすごい百面相してたからおかしくて」

 達也くんは弁解してるけど、私は出来ればその一つ前の言葉が聞きたくてそれどころではなかった。

 残念ながら確かめる術なんて思い付かないけれど。

「瑛ちゃん? ごめん、怒った?」


「……あ、うんん! 大丈夫だよ!」

 また旅行しそうだったので一拍テンポがずれたけど、そこまで不自然じゃないはず。


「ごめんね、私迂闊な所あるから……。海姫にも気をつけろ、って言われてるのに」


 あ、愚痴ってしまった、と咄嗟に反省するけど、ハッキリ発声した以上取り消すことも出来ないから気付いて以降の言葉のひっそりと飲み込み、なかったことにする。


「全然! 瑛ちゃんのそういう所、面白くって好きだよ?」

 好き!?


 顔が爆発したんじゃないかって有り得ない心配をしでかすくらい、その言葉は瞬間的に私の水分を沸騰させた。漫画だったらぼん! って効果音がついてる、絶対!

 達也くんはきっと本心からそう思ってくれてるけど、多分きっと、それは私のとは違うんだって、なんとなく解るのはちょっと辛い。

 だけど、本心でそう思ってくれているとしたら、その意味もいつか、変えて行けるかもしれない。

「……ありがとう」


 言って、殆ど声になっていないことに気付く。

「うん」

 だけどそれでも、達也くんはこの喧騒の中、ちゃんと聞き取ってくれる。

 こんななんでもないようなことが、とても、嬉しい。


「そろそろ行こうか?」

「……うん!」

 今度はキチンと元気良く頷いて、今度はしっかり信号を確認する。

 丁度、歩行者用信号機は赤から青へと変わった所だった。

「今度は大丈夫!」


 私はわざと明るい声で確認して、達也くんを笑顔にさせる。

「良く出来ました!」

 達也くんもおふざけに付き合って、大仰に褒めてくれる。

 こんな幼稚なやり取りがなんだかとっても楽しい!

 私たちは並んで歩き出す。私が一歩目に白い部分を踏んだのを見て、達也くんもそうする。

 達也くんがそうするのをみて、私の次の一歩も達也くんの真似をする。

 なんだか二人して楽しくなって、残り全部を競争するみたいにそうして渡って、渡り切って声をあげて笑う。

「楽しいね?」

「うん!」

 微笑み合って歩き出す。

 すると、やはり達也くんは私が濡れないようにと傘の半分以上を貸してくれる。

 すごく自然にしているから、全く気付くことが出来なかったけど、今はもう違う。

 私はもう、達也くんの肩が長い間、私のために濡れたままでいたことをちゃんと知っている。

「達也くん」

 名前を呼んでみる。

「うん?」

 前を向いていた顔をこちらに向けてくれる。

「傘、そんなに気にしなくて良いよ?」

 気を遣わないで、と告げる。

「でも、瑛ちゃんが風邪引いたらやだな」

 と、達也くんは不安げに言う。

 私を思いやってのことだって解っているから、気持ちはすごく嬉しいけれど、もう一人だけ我慢して欲しくない。

「私も達也くんが風邪引いたらやだよ?」

 拗ねたみたいに言ってみる。

「俺は大丈夫だよ。男は強いんだ」

 なんて、頼もしいことを言ってくれる。

 うーん、これはなかなか手強いな、なんて考えて、ふと名案……迷案? が浮かんで来る。

 いや、だけどこれは……。実行するのはちょっとどころか大分恥ずかしい……ん、だけれど。


 傘をなくして悲しい時、落ち着くのを待っていてくれた達也くん。

 ハンカチで涙を拭いてくれた達也くん。

 信号に気付かなかった私を助けてくれた達也くん。

 意味は違うけど「好き」だって言ってくれた達也くん……。


 たった数十分の間のことだけど「傘の届く範囲」という免罪符が周りの世界から切り取ってくれるこの距離まで近付いて、言葉を交したり、触れ合うことで、こんなに沢山嬉しいことがあったから。

 もっと前に進みたいって、思えたから。

 チラリ、と達也くんの顔を見上げる。

「だから気にしないで?」

 達也くんは安心してしまうあの声で言う。

 ……きっと、嫌ではないよね?

 その優しさに、私はちょっと遠慮を横に追いやって、一世一代の決断を下す。

「……じゃあ」

 呟いて直後、思い直す。この決断を、今ならまだ覆せる。まだ不自然な所は一つもない。胸が張り裂けそうな程高鳴っている。足も実は震えてる。だからまだ、臆病を理由に引き返すことだって、出来ないわけじゃない。

 それでも……!

 うん、と一つ自分を奮い立たせるために頷いて、二人の間にひらいている短い遠路……この果てしない5センチを埋めるように、たった一歩を踏み出した。

「え……?」

 唐突な私の行動に達也くんは戸惑いの声を上げる。

「こうすれば、二人とも濡れないよ!」

 達也くんの傘を差す左腕に左肩に、私の右手と右肩が触れ合う。

 驚いたのか、距離を取ろうとする達也くんの右腕を、脊髄反射で咄嗟に掴んで腕を絡める。

「……ね? 大丈夫でしょっ」

 最早自分ではない自分に自分を操られているような感覚で、達也くんを直視出来なくて、明後日程じゃないけれど、明日の夕方くらいの方向を向きながら早口気味に言った。

 嫌だったのかも知れない。だから距離を取ったのかも知れない。だけど、だけど後10歩だけで良い。この腕を振り払わないでいてくれるなら。

 すぅ、っと息を吸い込んで胸の中でカウントダウンを始める。

 1、2、3……。

 達也くんの腕は緊張しているのか、力が入っていてすごく硬い。

 ライトオンスだからだろうか、デニム越しの私の腕にも筋肉の硬直は伝わってくる。達也くんも、もしかして私と同じように、緊張しているかな……。

 4、5、6……。

 身体中が熱い。体感だともう絶対42度の致死熱を遥かに超えている。それなのに心臓はこの上なく働いて、まだまだ体温を上げ続ける。

 もうこれ以上上がらないで。達也くんにこの熱や心音が伝わってしまう。

 7……。

 顔はそのままに、横目でまた、達也くんをそっと盗み見る。

 8、9……。

 数瞬遅れて、達也くんも同じように私に視線投げ掛けてくる。

 10!



 11、12……。

「……そうだ、ね?」

 達也くんはすごくためらいがちに頷いてくれた。

 盗み見合った私たちは、頷き合ったことを見届けた後、俄かに互いの視線を逸らす。


 雨音は未だ世界を埋め尽くしている。

 傘を打つ音。大地を穿つ音。溜まった水溜まりを不用意に踏んで弾む音。

 風は冷たくて、降りしきる雨の水滴と呼べない程に小さな水滴は、密やかに肌を服を濡らして行く。

 だけどもう達也くんの右肩も、勿論私の左肩も、不必要に濡れそぼることはない。

 あんなにも遠かった、たった5センチメートルの途方もない距離は、今はもう二人の間の何処にもない。

 行く先に人影は少なく疎らで、行く手を遮る障害物も殆どないのに、心なしか、どちらからともなく、歩幅が小さくなっているように思う。

 達也くんをそっと見上げる。

 達也くんと目が合う。

 きっと同じことを考えているんだと、互いの直感が共鳴し合ったように感じたから、私は嬉しくなって絡める腕にもっとぎゅっ、と力を込めた。

 だからすごく歩き辛くなって、必然歩調がもっとのんびりしたものになる。

「瑛ちゃん、歩き辛いよ!」 

 達也くんは迷惑そうというより、くすぐったそうに言って困った顔を作る。

「……良いの!」

 私は強引に、現状維持を主張する。

 だって、この一歩一歩は私にとって、大切な宝物なんだから!



 不意に雨に霞む通りの向こう側に、駅の建物のシルエットが茫漠と揺らめいて見えた。

 だけど、それでも。

 駅の改札はきっと、まだ遠い。


 
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2010年04月18日:初出