Christmas Time >2003「Courage」>第06話「解けた魔法〜12月25日」

解けた魔法〜12月25日



 比奈子はゆっくりと上体を起こした。柔らかな日差しがまだ目には強すぎて、思わずまた目を閉じてしまった。

 不思議な夢だった。

 比奈子は起き上がり、初めにそれを思った。何か、一日を巻き戻したような、そんな印象を受ける夢。

 比奈子は暫く眠りの余韻に浸っていたが、いよいよ起き出して顔を洗いに洗面所へと向かった。

 机の上の白い箱が、遮光カーテンの隙間から洩れる朝日を受けて、より白く映えていた。



* * *



「あ、お父さん」

 洗面所には、父親がいた。先にひげを剃り、顔を洗っていたようだ。

 父親が振り向くのを待って、比奈子は「おはよう」と言った。

「おはよう、比奈子」

 父親はタオルで顔を拭き終わると、笑顔で言った。

「いよいよ二学期も明日で終わりだね」

「…え?」

 比奈子は笑った。

「やだなー、お父さん。今日が終業式だよ?」

 笑う比奈子を見て、目を丸くする父親。

「…比奈子? 今日は何日だい?」

父親の問いかけに比奈子は躊躇いも無く「二十六日だよ」と答える。

 と、父親は笑って言う。

「今日はまだ二十五日だよ。寝ぼけてるのかな?」

 父親はそれだけ言って、着替える為に寝室へ戻って行った。

 比奈子は戦慄を覚えた。その場に居た堪れなくなって、リビングに足早に向かう。そして映し出されているテレビの、ニュースの映像に映った日付を見て愕然とした。

 確かに十二月二十五日だった。

 比奈子はフラフラと自分の席に着く。そして、比奈子にとって昨日の出来事を思い出す。

 終業式は二十六日。そして、昨日の放課後、先生は確かに「明日の終業式は…」という話をしていた。間違いない記憶だ。

 それならば、この現実はどう説明すれば良いのだろう。

 比奈子には、二千三年の十二月二十五日が二度来たというのだろうか。

 比奈子は、其処まで考えて気付いた。

『魔法だよ。この魔法は十二月二十五日にしか効果はないけど、その代わり、比奈子が望むものは何でも叶えてくれるよ』

 その、魔法が入っていた箱は、確か今朝机の上にあった。本物の魔法でも掛かっているかの如く光っていた…と思う。

 比奈子はまた、急いで自分の部屋に戻った。扉を開け、机の上を見ると、それは確かにあった。

 恐る恐る箱の蓋に手をかける。目をきつく瞑りゆっくりとずらしていく。

 蓋は外れた。比奈子はゆっくりと目を開いていく。

 そして、愕然とした。

 何も入っていなかったはずの真っ白い箱の中に、木で出来た何かが入っていた。

 比奈子は戸惑いながらもそれに手を伸ばす。

持ち上げて良く見てみると、それはジュエリーケースのようだ。蓋のような部分を開けてみる。と、柔らかな音色が流れ出す。どうやらオルゴールもついているようだ。

 比奈子はその旋律が途切れると、ゆっくりと箱の中に戻した。その蓋を閉じると、比奈子はその中心を眺めた。何か意図があったわけじゃない、ただ、なんとなくそうしてしまった。

「ヒナー、トースト冷めちゃうよー」

 どれだけそうしていたのだろうか、リビングから母親の呼ぶ声が聞こえる。

「…いけない!」

 比奈子は慌ててランドセルを手に取ると、朝食を摂りにリビングに急いだ。



* * *



 町の匂い。人の足取り。流れる音楽さえも昨日と全て同じだった。けれど、風が違うように思う。

 いつもの交差点に差し掛かる。比奈子にとっての昨日、と言えば良いだろうか、あの時はタイミング良く信号機は青に変わったが、今日は変わることはなかった。

 ただ、それだけのことかもしれない。

 それでも、比奈子は不安で仕方なかった。

 やがて信号が青に変わり、比奈子はいつものように、横断歩道の白い所だけを踏みしめて行く。特別な思いがあるわけではなかった。けど、そうしたかった。

 渡りきって、後はまっすぐ歩みを進める。

 校門を潜り抜けると、其処には記憶と同じ光景が広がっていた。

 栞と、二人の女の子たちが何かを話ながら―――記憶通りならばドラマの話だろうが―――歩いていた。

 比奈子は栞の背中を見つめながら歩いた。記憶に相違なければ、もうすぐ声をかけてくれるはずだ。

 比奈子は期待していた。記憶とは変わらない一日が始まることを。

 しかし、栞たちが振り向くことはついになかった。下駄箱を抜けても、廊下を歩いても、教室に比奈子が入っても、栞はおろかクラスの女の子誰一人として比奈子を見ていなかった。

 比奈子は席につくと、心を押しつぶそうとする不安を必死に振り払おうとしていた。

 大丈夫。

 比奈子は心の中で反芻する。

 きっと、次の休み時間には栞が話しかけてくれる。

 比奈子は暗示を自らにかけるが如く、何度も何度も繰り返した。

 …それなのに。

 一時間目が終わっても、二時間目が終わっても、栞は比奈子に見向きもしなかった。

 授業の内容は、記憶と完全に一致している。

しかし、昨日のように、皆が比奈子の席を囲むようなことはなかった。

 休み時間には、栞の席の周りに人が集まる。それは丁度、記憶の中の、自分と重なる。

 比奈子は栞の席に出来ている人だかりを眺めては何度自分もその輪に加わろうと思っただろう。しかし、体が言う事をきかない。

 栞の笑顔が浮かぶ。

 声も、すぐ手を繋ぎたがる仕草も、記憶には新しい。だけど今は、果てしなく遠い時の向こう側。…そのように感じる。比奈子は聡の席を見る。せめて聡は覚えていないだろうか。一度通じた心は、きつく結んだ糸のように、ほどくことは容易ではないはずだ。

 次の休み時間に、勇気を出して話しかけてみよう。比奈子は一人、心の中で自分に誓った。



 休み時間。比奈子は聡の背中を見つめた。どのような言葉を持って接すれば、自分の意図する所のものを、過不足なく伝えることが出来るだろうか。

 思案する比奈子。

 しかし、聡が昨日のことを覚えていないとしたら―――。

 戦慄が比奈子の身体中を駆け廻る。

 昨日築いた関係はなかったことになる。つまりは、栞や聡はじめ多くの人との関わりがなかったことになっている。比奈子は今更ながら理解した。

 それは、思ったよりも失うものが大きい。

 昨日が特別だっただけで、これは今まで通りの日々が戻ってきたに過ぎない。

 それなのに、こんなにまで寂しい気持ちになっている。それだけ、一日の内で築いたものが大きかった。

 人の温かさに触れてしまった。それは、思った以上に重大なことだった。

 人は一人でも生きていけるものだと思っていた。けど、そうじゃないという事実を知ってしまった。

 比奈子はクラス中を見回した。どうしようもなく、手放せないものが此処にある。

 比奈子は覚えず立ち上がっていた。

 声高に主張したかった。自分は此処にいる、と。けれど、喉まで出かけた言葉は、ついに声になることはなかった。

 比奈子は俯いて席に着く。そんな寂しげな姿を、聡は人知れず見ていた。



* * *



 結局のところ、その日は誰とも触れ合うことなく一日が終わった。

 夕食を家族で摂りながらも、比奈子は色々なことを考えていた。

「比奈子」

 と、父親の呼ぶ声がする。比奈子は顔をあげた。

「…何? お父さん」

 言って、父親の目を捉えると其処には揺るぎないものがあった。比奈子はハッ、とする。

「…今日は、どんな一日だった?」

 そう思った次の瞬間には、父親の目は優しく微笑んでいた。

「…普通だったよ。いつも通りの一日だった」

 比奈子は自分への皮肉を込めて、そういう言葉を選んだ。

「…寂しかっただろう?」

 と、父親が言う。

「…え?」 

 比奈子は驚愕する。父親の目も、言葉も今日比奈子が味わった気持ちを過不足なく汲み取っているようだった。

「人と付き合いを持っていく、って言うのはそういうことなんだよ」

 父親の言葉が続く。比奈子は俯いて目を閉じた。父親の言葉の全てを咀嚼して、理解したいと思った。

「それは誰かの言葉だったり、行動だったり形は様々だけど、関わり合い生きていくということは、とても大切なことなんだ」

 父親はそんな比奈子の気持ちを汲み取って、ゆっくりと語る。

「確かに喧嘩したりして、時には傷つくかもしれない。だけど、それは恐れるべきことじゃない。寧ろ喜びだって、お父さんはそう思うよ」

 比奈子は顔を上げない。きっと心に刻んでいるのだろう。

「だって、相手のことを知れるし、相手に自分を知って貰えるだろ?」

 比奈子の心には栞や聡が思い浮かんでいる。

比奈子の言葉が優しい。聡の言葉が嬉しい。

「それは比奈子も判ったね?」

 問いかけてみる。比奈子は僅かに、しかし確実に頷いた。

「理解して貰えないかもしれない。それを比奈子はずっと怖がっていたんだね」

 比奈子はハッとした。人と関わりあうことを避けていた。それは、そういうことだったのだ。

「…きっとこれから人と関わり合うことで寂しい思いもすると思うし、悲しい思いもすると思う。だけど、それ以上の喜びがある。だから、人は一人では生きて行けないんだ。誰かが傍にいるという安らぎは、何にも代え難いからね」

 父親はにっこりと微笑んで、水を一口飲んだ。

「誰かと付き合っていく心地良さ。それが、僕たちからのクリスマスプレゼントだよ」

 父親はそれだけ言うと、そっと、隣にいる母親の手を握った。二人微笑み合う姿を見て、比奈子は誰かと関り合っていく喜びの、最高の形を其処に見た。

「お父さん、お母さん」

 比奈子は言葉にする。

「ありがとう」

 どうしようもなく、手放せないものが、今の比奈子にはある。

「私、大切にするね」

 この、気持ちを。比奈子はそれだけ告げて席を立つ。

 明日が早く来るように、早速準備をしなければならない。終業式に要るものを用意して、お風呂に入って、眠らなければならない。

「そうだ」

 比奈子は思い出した、というように両親を振り返る。

「…どうやったの?」

 比奈子はあの不思議な一日を指して問うた。

「それは、簡単だよ」

 父親は嬉しそうに言った。

「比奈子が寝ている間に、こっそり箱の中に入れたんだよ」

 見当ハズレな返事をする父親。

「お母さんと二人で選んだんだ。気に入ってくれた?」

 比奈子はもどかしそうに頷いて言った。

「うん、気に入ったよ、でも私が言いたいのはそれじゃなくて…」

 父親も、母親も、そんな比奈子の様子を見て笑った。

「…それは、ナイショ」

 同級生の男の子みたいな笑顔で父親が言うから、比奈子も笑って、それ以上何も訊かないことにした。その代わりにもう一度。

「ありがとう!」

 その言葉だけを残して比奈子は自分の部屋へと戻って行った。